手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

波と海の関係

 たとえを出して説明してみますと、波と海の関係にたとえればよくわかると思います。私たちは波です。一瞬の間に消えていく波です。それだけを思うと、はかないです。しかしもう一つ考えてください。波はどうして起こるのかというと、海があるから波が起こるのでしょう。そうすると海があるから波が起こっているのであって、海が波となっているのでしょう。私たちは波です。それを私の命としましょうか。それでは、海はなにかというと、無量寿の世界、命のふるさとです。私の命である波は、海が波となったものです。それと同じように、いまの一瞬一瞬の私の命というのは、無量なる命の世界が私という命となってくださっているということでしょう。


 私というのは、私が生きているのではないのです。無量なる命の世界が、私となって、くださっている。無量なる命が私という姿をとってくださっている。ですから、波が一瞬のうちに消えて海に戻るように、私という命が終えたときには、私という命となってくださった無量なる命の世界へと帰らせてもらうのです。大きくて、広くて、深い、命の世界に私は帰らせてもらう。そういうふうにたとえることができるかと思います。


 私たちは、一瞬一瞬の波のような命を賜って生きている。無量寿如来が、無量なる命の世界が私となっていま息づいてくださっている。そのことを思ったら、すごいなあとしか言えないでしょう。もったいないということは、そういうことです。「私はもともとゼロである。御縁がなければ、息ひとつできない私なのに、御縁のもとで吸う息、吐く息をいただいていて、そして一瞬一瞬の命を毎回燃焼させてもらっている。すごいな、もったいないな」、これが南無阿弥陀仏というお念仏の心です。


 親鸞聖人は、仏恩報謝のお念仏と言われますが、このことがわからないと、どうして仏さまに感謝しなければいかんのかという話になるでしょう。


 阿弥陀さまのことを無量寿如来といいます。しかし、人間の形をした無量寿如来がどこかにいるわけではないのです。無量なる命という、姿形では表現できない命の世界がああいう姿で表してくださった。仏像の形をもって表しているのです。そこのところを親鸞聖人がはっきりとしてくださったのです。
【仏教からみた「後生の一大事」 小川一乗  法蔵館 P28~P30より】



生かされている命。
南無阿弥陀仏のおはたらきの中で生活している環境下において、
そのことの、気づき、目覚め、があるかないかは大きな違いです。
仏恩報謝のお念仏(南無阿弥陀仏)を称えさせて頂きたいものですね。
今日も南無阿弥陀仏