手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

証拠は、南無阿弥陀仏

現代人であるわれわれが仏教 ―― とくに浄土教に近づこうとするとき、つまずきの石の第一は「仏」とは何かという問題であり、第二は仏の世界である「浄土」の実在への疑問であろう。史上、実在の仏である釈迦については納得できるが、アミダ仏となるとにわかに神話的となり、現代人の信憑能力を超えてします。智慧と慈悲のシンボルというと知的には理解できるが、宗教的情熱の対象とはなり得ない。西方浄土といわれても、これまた宇宙のどの辺か ―― と戸惑ってしまう。


才市はこういう問題をどうみていたのであろうか。


ほとけから ほとけもろうて
なむあみだぶつ
なむあみだぶつ
わしがほとけよ


才市にとっては、称えずにおれない仏の名号(南無阿弥陀仏)がすなわち仏そのものであった。これほど確かな存在はない。


あみだは これこれ
ここにある
なむとあみだが
なむあみだぶつ
如来さん
わしゃ こがなことかきます
うれしいな


教学的にみて才市の領解が正しいのかどうか私には判断できないが、しかし、ここには、才市の生命と共に躍動してやまぬ生きた仏がいることを感じさせる。
【浄土の人びと −精神科医からみた妙好人− 小西輝夫 百華苑 P97〜P99より】



『称えずにおれない仏の名号(南無阿弥陀仏)がすなわち仏そのものであった。
これほど確かな存在はない。』
この文章に尽きますね。
今日も南無阿弥陀仏




なぜ、西方浄土といわれたのか?


お経に、阿弥陀仏の浄土は西にあると説かれています。なぜ西なのでしょうか。
親鸞聖人は中国の曇鸞大師を讃える和讃の中で、
「世俗の君子幸臨し 勅して浄土のゆえをとう 十方仏国浄土なり なにによりてか西にある 鸞師こたえてのたまわく わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」と説かれています。
これは、魏の国王が、曇鸞様のお寺に訪ねて来られ、お浄土について質問をされました。お浄土があるかないかという質問ではありません。国王は、お経は真実が説かれています。
そのお経の中で浄土を「広大で果てしがない世界である」と説きながら、一方で「西方浄土」と説かれるのは何故ですか、と問われたのです。
曇鸞様は、お浄土は計り知れない広大な世界であるが、お釈迦様は凡夫の私たちに合わせて西方と示してくださったのです、と答えられました。
一日の始まりは、太陽が東から昇り、一日の終わりは、西に沈みます。
西方とは方角ではありません。私たちの人生の終わりに生まれて行く世界を指し示してくださったのです。
【長永寺(新潟県長岡市)ホームページより http://www.tyoueiji.com/2houwa11.html 】