手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

ただ信心を要とすとしるべし

 『涅槃経』原文を読むと、耆婆(ぎば)は、阿闍世(あじゃせ)を慚愧ありと褒めてから、さらに語りかけている。その趣旨は、懺悔・慚愧による滅罪である。懺悔と慚愧は、そこでは、ほぼ同じ意味に用いられて次のように言う。


若し懺悔し慚愧を懐けば、罪即ち除滅し清浄なること本の如し。(大正蔵一二)
若し慚愧を懐けば、罪則ち消滅す。(大正蔵一二) と。


 しかし、親鸞はその部分を『教行信証』に引用していない。それは何故か。必要のない部分であったのだろうと領解するような短絡的発想をしてはならない。
 それは、親鸞の思想文脈から見ると必然的なことである。親鸞は、懺悔・慚愧による滅罪説を要としない。慚愧滅罪によって人は救われるのではなく、「ただ信心を要(よう)とすとしるべし」(『歎異抄』第一条)と示されたではないか。
 阿弥陀仏の因位、法蔵菩薩は、衆生に対して決して、「懺悔せよ」「精進なれ」と命令しない。「信じて我が名を称えよ」、さらには「我が名を聞け」と命ずるのみである。名を聞くとは、仏願の生起の本を聞くことである。すなわち、誓願の発起、誓願の因源たる願の心を聞くことのみを法蔵は要求し、釈尊は教えられた。これこそ仏教の本意である。
親鸞の阿闍世観 三明 智彰(みはる としあき) 法蔵館  P31,P32より】




願行具足の南無阿弥陀仏、ありがたいですね。
今日も報恩感謝。
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