手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

わたしの計らいは一切無功

 悪人であると気づかされるということは、悪を否定することでありながら、悪から脱却することのできないことに気づかされることであります。悪を悪と知り、したがって悪を犯してはならないと知りながら、しかも悪を犯さずに生きてはいけない、その人間の実相を、親鸞聖人は宿業とか罪業とおっしゃったのではないでしょうか。だからこそ、こういう、どうにもならないものが、どうにもならないままですくわれていくのが本願の救いなのです。

 『歎異鈔』第一条に
「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にはあらず。念仏にまさるべき善なきゆえに。悪もおそるべからず。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえに」
とあります。「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず」といわれたのは、弥陀の救いが自在無碍なることをあらわし、弥陀の救済においては、私たちのはからいの一切が無功と信知せしめられるのであって、そこには「ただ信心を要としるべし」と示されるのです。
 

 「わがかげの  くろくみゆるは  みひかりの  ましたるならん」と書いた人がいます。凡夫であることの悲しみと、救われていることの喜びが、ここで同座しています。悲しみが不安となるのでもなく、喜びが悲しみを消し去るものでもありません。凡夫であることの悲しみの中に喜びがあり、摂取の喜びの中に凡夫の悲しみがあるのです。
【寳章 34 平成22年6月 真宗学寮 P36、P37より】




「わがかげの  くろくみゆるは  みひかりの  ましたるならん」
素晴らしい表現だと思います。
ここでも述べられていますように、阿弥陀さまの救いは自在無碍です。
ですので、わたしは、阿弥陀さまに、ただおまかせです。
ただそれだけでよいですし、それしかありません。
今日も南無阿弥陀仏



エイドリアン・リマーニ (写真家)