手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

池田晶子 の検索結果:

命は個人のものではない

…顯 響流選書より】 池田晶子(下記リンクよりどうぞ) https://tarou310.hatenablog.com/search?q=%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%99%B6%E5%AD%90 確かに、私は、自分の意思で、この時代に、この日本に生まれてきたのではありません。また、この風貌で(笑)。まさしく、私は生かされている、といってよいでしょう。ここで、「自分の命は、個人のものでない」といわれています。「なるほど!」少し考えれば納得できます。いま・ここで・私…

死について考える

…美味『残酷人生論』 池田晶子の言葉 講談社 P21より】 「自分の死」について敢えて考えないように遠ざけるスタンスでは、人生最高の美味は味わえない、ということです。 では、すでに「私の生死問題」解決の術(すべ)が用意されていたらいかがでしょうか。それに乗っからない手はないでしょう。 浄土真宗の教えからいいますと、死が、人生最高の美味になるか否か、は南無阿弥陀仏によるか否か、ということです。つまり、南無阿弥陀仏を感じながらの生活は、人生最高の美味を味わっている生活ともいえましょ…

生きていることの不思議

…が自分の意志でできることなんか、たかが知れているのです。人生は自分の意志を超えているのです。 【わからないのは当たり前『死とは何か』 池田晶子の言葉 講談社 P17より】 私の人生で、一番の問題は、遅かれ早かれ「私は死んでいかなければならない」という厳粛な事実があることです。いわゆる、「私の生死問題」です。 ここでは、 「人生は自分の意志を超えているのです」と提示されています。 つまり、「私の生死問題」ではありますが、自己解決は不可能ということです。 さて、どうしましょうか?

今まさに聞いている

…聴こえているというこの経験、この感じ以外の何ものでもない。だからこそ経験とは不思議なものなのだ。 【犬の力知っていますか? 池田晶子 毎日新聞出版 P194~P196より】 この文章を読んでいますと、「私が南無阿弥陀仏のはたらきに気付く」ということを説明する上で、通じるものがあります。理屈なしに南無阿弥陀仏、という表現になるでしょうか。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏 ※下記リンク:「最後に届いた手紙(池田晶子)」もどうぞ! tarou310.hatenablog.com

わたしは何者?!(その2)

…もう考えることが宿命みたいなものですが、どなたでも生きて死ぬ限り、同じ問いは何かのきっかけで必ずもつはずです。【私とは 「私とは誰か」から考えよう 池田晶子 講談社 P220~P222より抜粋】 「私とは何者?」という問いは、人として生きている上でとても大切なことだと思います。そういう問いがでてくるのは、「私は死ぬ」という厳粛な現実が背景にあるからなのでしょう。今一度、「いま、私が生きている意味」をじっくりと考えてみたいものです。 www.nenbutsusyaton.com

会者定離(えしゃじょうり)〈投稿文〉

…な哲学者である、故 池田晶子は、「生きること」について考えることが日課である、と公言していた。果たして、彼女がそのことについて回答を見出せたかどうかは不明であるが。 「念仏者は無碍の一道なり」と親鸞が発した有名な言葉が歎異抄にある。その言葉に、「生きること」への大きなヒントがあると注目している。 歳をとった者から順番に死を迎えるというルールがあるわけでもなく、自分の死を予測することは不可能だ。ただ一つハッキリしていることは、いま・ここで・私が生きているという事実だ。このことは…

表裏一体 (生と死を考える)

…る。 【残酷人生論 池田晶子 情報センター出版局 P14,P15より】 鋭い指摘といいますか考察です。 生死一如(しょうじいちにょ)といわれますように、生と死は表裏一体です。 ここで、「ほとんどの人は、生は確かで、死はなんとなく先のこととして生きている」と指摘されています。もちろん、わたしもこのなかのひとりです。 このようなブログを書いて偉そうなことをいっていますが、 わたしが、このいま、ここで、死ぬとは全く思っていません。明日や年末の予定で頭がいっぱいです。 このように、全…

宗教と言葉の本質

…す。まっすぐ垂直に貫かなければ、宗教はないのに。 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきかけを 「超越的なものから自己への垂直線」という表現でコメントされていると推察します。 「垂直線」という言葉に、『南無阿弥陀仏のはたらき』の力強さを感じます。 今日も南無阿弥陀仏 http://mainichi.jp/shimen/news/20151024ddm014040015000c.html 注)ネット上(毎日新聞)では、池田晶子さんの回想(記事後半:大峯 師3)はカットされています。

「この今」を考える

…。 【人生は愉快だ 池田晶子 毎日新聞社 P11,P12より】 過去を追うな( Don’t look back on the past. ) 未来を願うな( Don’t anticipate the future. ) 過去はすでに捨てられた( The past has already ended. ) 未来はまだやってこない( The future has not come yet. ) ただ今日なすべきことを熱心になせ(Only do your best in what …

発想の転換

…さほど重大か。いまこの瞬間に「救われる」のでなければ、いつ救われることができようか。そう気づくためには、やはり少々の発想の転換が必要なのである。 【人生は愉快だ 池田晶子 毎日新聞社 P42(イエス)より】 この書籍(第1章)では、仏陀をはじめ「死を問う人々」と題して、それぞれ考察されています。勝手ですが、「発想の転換」というタイトルにしました。短文で的を射た文章です。その他、かなり鋭い指摘がなされてます。とりわけ、生死問題においては「いま」が大事です。 今日も南無阿弥陀仏。

考える

…考えるための教科書 池田晶子 トランスビュー P15,P16より】 「本当にそうである」ということは、究極にいえば「真実」ということです。それは不変です。誰に対しても一様です。 それに対して、「本当にそう思う」はあやしいですね。主観は私です。 私ほど不確かなものはありません。私が思うから間違いない、は通用しません。 私の思い(込み)ほど、当てにならず不確かなものはありません。 いろいろな視点にたって「考える」ということは非常に大切なことだと思います。 いま私が信じているモノは…

人生は有限である

…【41歳からの哲学 池田晶子 新潮社 P55,P56より】 「人生は有限である!」といわれて、 「そんなこと言われなくとも当たり前だ!」と応えるのは大方だと思います。 果たして、本心からそう思っているのでしょうか? 果たして、本心からそう感じているのでしょうか? 「人生は有限である」と、頭では分かっていても、本心は分かっていません。 「死ぬ」といわれても、自分のことではなく、他人さまのこととしか思えないのが現状です。 「いま、わたしが、ここに生きている」という自身の存在理由を…

最後に届いた手紙 (池田晶子)

…るい孤独な思惟の中で池田晶子の長い旋回はついにその最終的な局面に入っていたに違いない。「生きること死ぬことは他力による」。彼女が連載する「週刊新潮」にこの言葉を見つけたのは、それから間もない頃だった。 池田さんが亡くなった2月23日の夜、私は何も知らず東京にいた。強い大風が吹く夜であった。逝去のことや病床の様子などについては、3月の初めになって、九州の旅先にあった私にかかって来た夫君の電話で聞くことが出来た。待ちかねていた対談『君自身に還れ』は、病床にやっと間に合って彼女を喜…

南無阿弥陀仏

…師の解釈」「哲学者 池田晶子の回想」「南無阿弥陀仏に生かされている」等についてお話し頂きました。 大峯顕 師におきましては、今月で86歳とのことです。その人生経験、哲学者としての視点を織り交ぜながらの話は、他では滅多に聞けないお話しです。凄みがあります。 特に、「信心」について明解にお話し頂きました。 今から500年前の蓮如上人時代と同じく、「聴聞、聴聞というけれども、その中身が大事であって、肝心の『信心』のことを忘れている現状があること。 また、大峯師の人生を通して、自分が…

大きなものに委ねる

…うに感じる。どうジタバタしたところで、人間の為すこと考えることは、やはりたかが知れているのである。そんなふうに腹を括って、より大きなものに委ねてしまったほうが、よほど賢いのではないか、幸福なのではないか。 【魂とは何か さて死んだのは誰なのか 池田晶子 トランスビュー P89,P90より】 鋭い考察といいますか感性ですね。 池田さんが存命でしたら、是非、対談してみたい、です。 この文章を読んでいますと、なぜか、南無阿弥陀仏のおはたらきを連想させられます。 今日も南無阿弥陀仏。

考えなければ始まらない

…死んだのは誰なのか 池田晶子 講談社 P27~P29より】 池田晶子(いけだ あきこ) 文筆家。 1960年(昭和35年)8月21日午後9時5分、東京の一隅に生を得る。 1983年(昭和58年)3月、慶應義塾大学文学部哲学科倫理学専攻を卒業。 文筆家と自称する。池田某とも。 専門用語による「哲学」から哲学を解放する一方で、驚き、そして知りたいと 欲してただひたすら考える、その無私の精神の軌跡をできるだけ正確に表わす こと――すなわち、考えるとはどういうことであるかを、そこに現…

信心というのは気づくこと

…とです。 【 君自身に還れ 知と信を巡る対話 大峯 顕 池田晶子(本願寺出版)P108より 】 【手品師コメント】 「気づく」ということは、この今も、阿弥陀さまは、わたしのそばに寄り添って頂いているということからでてくる言葉だと思います。 「自覚」という表現になりますと、阿弥陀さまと私の間に距離を感じます。また、信心は、なにか形あるものになってしまうように思います。 信心が、なにかの形であれば、いつかは崩れてしまいますし、守らなければなりません。 安心ということはありません。

そういう意味においては自覚

… 自分という存在のもっと深い根を知らされるというか、自分の力じゃなくて、何かもっと大きなものが自分に侵入してきて、自分がはっと目が覚める。 けれどそれは自分というものの上に起こること、あくまでも自分という存在の上の出来事だから、そういう意味においては自覚という言葉を使っていいと、ぼくは思っているんですね。 【 君自身に還れ 知と信を巡る対話 大峯 顕 池田晶子(本願寺出版)P94より 】 【手品師コメント】 「なるほどなぁ〜」と思います。自覚という言葉の使い方、難しいですね。

言葉が語る

…、言葉の問題でずいぶんハイデカーから学びました。名号論を書いたときにはハイデカーの言語論にずいぶん助けてもらいましてね。 たとえば「言葉が語る」という言い方など。人間が語るのではなく、言葉が語る。これは浄土真宗における南無阿弥陀仏の名号というものの本質だと思いますね。 中略 言葉が語るということは、仏教で言ったら仏が語るということなんですよ。 【 君自身に還れ 知と信を巡る対話 大峯 顕 池田晶子(本願寺出版)P44より 】 【手品師コメント】 「なるほどなぁ〜」と思います。