(大峯)
信心というのは「そうだったか、もう救われていたのか」と気づくことです。われわれがこれから何かをやるんじゃない、もう済んでいたのかと気づくこと。今までそれに気づかないでいただけのことで、気づいたということが、助かったことです。
【 君自身に還れ 知と信を巡る対話 大峯 顕 池田晶子(本願寺出版)P108より 】
【手品師コメント】
「気づく」ということは、この今も、阿弥陀さまは、わたしのそばに寄り添って頂いているということからでてくる言葉だと思います。
「自覚」という表現になりますと、阿弥陀さまと私の間に距離を感じます。また、信心は、なにか形あるものになってしまうように思います。
信心が、なにかの形であれば、いつかは崩れてしまいますし、守らなければなりません。
安心ということはありません。