手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

今まさに聞いている

 

虫の夜の 星空に浮く 地球かな

         大峯 あきら

 

 この感じですね。秋は空気も澄んでくるから、ちょっと山の中に行けば、満天の星が眺められます。虫たちの大合唱を聴きながら、頭上の星々を見上げれば、当然この感じになっていくはずです。

この句が面白いのは、虫の音を聴き、星空を眺めているところの私が、虫の音となり星空となる逆転の構図を鮮やかに捉えているところで、「浮く」の一語が、端的にそれを表しています。

 人はたいてい、客観的物理的な世界というのが、自分の先に存在していて、自分はあとからそれを経験するのだと思っていますが、よく考えると、そうではない。外界の虫の音を私が聴き、外界の星空を私が眺めているのだと思っているのですが、じつはそうではないのです。

 たとえば、ヘッドホンをつけて大音量で音楽を聴くとき、音楽は「どこで」鳴っているのでしょうか。「私の頭の中で」それは鳴っているとは、どうも言い難い感じですね。聴覚神経への刺激が大脳に伝達され、それが音楽として認識されるなんて説明は、完全に事後の説明、文字通りの「説明」であって、事柄そのものでは決してない。事柄そのもの、純粋な経験としては、ただ音楽が鳴っている、いや、音楽が存在する、世界が遍(あまね)く音楽であるという、そういう経験であるはずです。夢中で音楽に聴き入っている時、「私が聴いている」なんて言語化が蛇足であるのは実感ですよね。

 仮にこの言語化、科学的説明が正しいとしても、音を聴くというこの経験そのものの何であるかを言っていることになりません。なぜなら科学は、この「聴く」「聴いている」という自分の経験を前提として、そこから説明を始めているわけだから、前提そのものの何であるかを説明できないのは当然なのです。耳の聴こえない人に、音を聴く、音が聴こえるというのはこういうことだと、この科学的説明により理解させることはできません。「聴く」「聴こえる」という経験は、今まさに聴いている、聴こえているというこの経験、この感じ以外の何ものでもない。だからこそ経験とは不思議なものなのだ。

【犬の力知っていますか? 池田晶子  毎日新聞出版 P194~P196より】

 

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この文章を読んでいますと、「私が南無阿弥陀仏のはたらきに気付く」ということを説明する上で、通じるものがあります。理屈なしに南無阿弥陀仏、という表現になるでしょうか。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

※下記リンク:「最後に届いた手紙(池田晶子)」もどうぞ!

 

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