手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

考える

 花を美しいと思う時、それは花が美しいのだろうか、それとも自分が美しいと思っているのだろうか。これはどっちが正しいのだろうか。こう考えてゆくと、やっぱり「自分が思う」の正しさについて、考えざる得なくなるね。
                 中略
 「本当にそう思う」ということと、「本当にそうである」ということとは、違うことだと覚えておこう。だって、間違ったことだって、自分がそう思っているのだから、「本当にそう思う」と思えるわけだ。でも、間違ったことを本当だと思ったって、間違ったことが本当になるわけじゃない。本当にそうであることは、間違ったことじゃない。やっぱりそれは「正しい」ことだということだ。
 でも、本当に正しいことなんて、どうやってわかるのでしょうか。それが自分が正しいと思っているだけではなくて、本当に正しいことだとどうしてわかるのでしょうか。
 これは当然の質問だ。そしていちばん大事なことだ。君は今、「正しい」という言い方で、どういうことを言おうとしているのだろうか。
 こんなふうに考えてみよう。物の長さや大きさを計るために、定規というものがある。誰の持っている定規も目盛は同じで、一センチは一センチと決まっている。もしこれが、使うたびに目盛りが変わったり、各人の持ち物で目盛りが全部間違っていたりしたら、定規は定規の用を為さない。正しく計ることができないのだから、世の中の寸法は狂いっぱなしだし、建物ひとつ建ちやしない。
 これと同じことだ。自分が思っているのだから正しいと思っている人は、自分ひとりだけの定規、自分ひとりだけの目盛りを使って、すべてが正しく計れると思っているようなものだ。各人がそういうてんでんばらばらな定規を使って生きるなら、間違ってばかりのはずじゃないか。
【14歳からの哲学 考えるための教科書 池田晶子 トランスビュー P15,P16より】



「本当にそうである」ということは、究極にいえば「真実」ということです。それは不変です。誰に対しても一様です。
それに対して、「本当にそう思う」はあやしいですね。主観は私です。
私ほど不確かなものはありません。私が思うから間違いない、は通用しません。
私の思い(込み)ほど、当てにならず不確かなものはありません。
いろいろな視点にたって「考える」ということは非常に大切なことだと思います。
いま私が信じているモノは本当に正しいのかどうか、今一度、じっくり「考える」のもいいですね。そんな機会を大切にしたいものです。
今日も南無阿弥陀仏