手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

人生は有限である

 リニアモーターカーの実現が近いとか、ニュースで言っていた。「東京大阪間が一時間も夢ではない。」しかし、そんなことを夢見た人が。
 そんな人はいないはずだ。三時間なら三時間で、それに見合った予定を人は立てていたはずだ。なのに、技術の側の勝手な進歩で、列車は勝手に速く走り出した。それに合わせて、人は予定を立てなければならなくなった。便利になるほど、時間は早い。忙しくなるほど、時間はなくなる。そうやって、忙しい忙しいと生きていたら、なんと死ぬ時がそこに来ていた。いったい人は、何のために何をしているのやら。
 人生の時間は有限なのである。全く当たり前のことなのだが、いつも人はそれを忘れる。忘れて他人事みたいに自分の人生を生きている。時間は前方へ流れるものと錯覚しているからである。人生は、生から死へ向かうもの。死は今ではない先のもの。しかしこれは間違いである。死は先にあるものではない。今ここにあるものだ。死によって生なのであれば、生としての今のここに、死はまさにあるではないか。
【41歳からの哲学 池田晶子 新潮社 P55,P56より】



「人生は有限である!」といわれて、
「そんなこと言われなくとも当たり前だ!」と応えるのは大方だと思います。
果たして、本心からそう思っているのでしょうか?
果たして、本心からそう感じているのでしょうか?
「人生は有限である」と、頭では分かっていても、本心は分かっていません。
「死ぬ」といわれても、自分のことではなく、他人さまのこととしか思えないのが現状です。
「いま、わたしが、ここに生きている」という自身の存在理由を今一度、じっくり考えてみたいものです。
『生死問題』は、人生、究極の課題です。
このことは、宗教心の出発点でもあります。もっと掘り下げれば、仏教、浄土真宗の教えに出遇うきっかけになります。
「当たり前に生きている」ということが、実は、当たり前ではなかったと気付かせて頂くことは大変素晴らしいことです。
より多くのひとに、南無阿弥陀仏を聞いて頂きたいです。
仏法ひろまれ 響け 届け・・・・・・・
今日も南無阿弥陀仏。