結局のところ、「死」こそが、人間にとっての最大の謎であり、したがって、また魅惑なのだ。少なくとも私は、そうである。言葉と論理、すなわちすべての思考と感覚が、そこへと収斂(しゅうれん)し断絶し、再びそこから発出してくる力の契機としての「死」。この人生最大のイベント、これの前には、生きんがためのあれこれなど、いかに色褪せて見えることか。死を恐れて避けようとし、生きんがためのあれこれのために生きている人は、死を考えつつ生きるという人生最高の美味を逃していると言っていい。
【人生最高の美味『残酷人生論』 池田晶子の言葉 講談社 P21より】
「自分の死」について敢えて考えないように遠ざけるスタンスでは、人生最高の美味は味わえない、ということです。
では、すでに「私の生死問題」解決の術(すべ)が用意されていたらいかがでしょうか。それに乗っからない手はないでしょう。
浄土真宗の教えからいいますと、死が、人生最高の美味になるか否か、は南無阿弥陀仏によるか否か、ということです。つまり、南無阿弥陀仏を感じながらの生活は、人生最高の美味を味わっている生活ともいえましょう。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏