手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

2018-01-01から1年間の記事一覧

大峯 顕 先生のこと

大峯 顕 先生との最初の出遇いは、ふと立ち寄った本屋の書籍コーナーでした。先生の文章を読んだとき、ビビビッときました(笑)。その出遇いがきっかけとなり、今なお、私の南無阿弥陀仏生活において大きな刺激となっています。南無阿弥陀仏のはたらきを独…

阿弥陀さまと真向きに

私はマジックにハマっています。その魅力のひとつとして、固定観念を超えたところを突くところ、があります。いうならば、1+1=2という世界ではないということです。1+1=10にでも100にでも1000にでもなる世界です。ですので、どんなに頭の良い人でも、簡…

浄土があるかないか、論じる必要性ってありますか?

一億円の宝くじが当たったことは、当選番号が証明するでしょう。当選番号が発表されてから、当たるだろうか、当たらないだろうか心配する人がいるでしょうか。でも、お金がもらえるのは券と交換してからです。浄土の証明は、名号以外に何がありますか。 ある…

最高の贈りモノ

(下記引用させて頂きます) 今年の夏から9月にかけては、猛暑続きの中、6個もの大型台風や北海道では巨大地震等にも見舞われ、日本のあちこちで甚大な被害を被りました。まだまだ完全な復興に至っていない所も多く、「災害大国日本」と呼ばれ始めているほど…

私は不死身?(続編)

しかしながら、阿弥陀さまと共に歩んでいる私は不死身なのです。

私は不死身?

朝刊のお悔やみ欄に名前が載らない日はありません。死ぬことを他人事でしか捉えられない第3者の私がいます。私は死なない、不死身の人間なんだと・・・。

ただ感謝

面白いもので、人生折り返し地点を過ぎますと、未来のことより、過去の楽しかったことを振り返る時間が多くなっているようです(笑)。私の人生に悔いはありません。阿弥陀さまと共に歩む人生にただ感謝。

大安心

このいま・ここで・私が生きている原動力は南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏あっての私であり、南無阿弥陀仏がない人生は虚しさしかありません。 南無阿弥陀仏が根底に末通った生活には大安心があります。ですので、いつ死んでも後悔はありません。南無阿弥陀…

自力のひと

南無阿弥陀仏を盾にしている方は、南無阿弥陀仏と同化していない人です。換言しますと、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせられていない自力の人といえましょう。

自称念仏者

南無阿弥陀仏を盾に、上から目線で話をしている方を拝見しますと、違和感を覚えます。こういう方を自称念仏者というのでしょう。

称名念仏

おかげさまで ありがとう 阿弥陀さまに対する報恩感謝のお念仏です。 私の口から念仏が溢れ出ましたら、しめたものです。換言しますと、理屈なしに南無阿弥陀仏、ということです。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

しばらくの縁

「袖振り合うも多生の縁」という諺(ことわざ)があります。知らない人と道でたまたま袖が振り合うちょっとしたことも、前世からの深い因縁である、という意味です。このいま、同じ空間をともに過ごしている不思議な出会いを大切にしたいものです。親や子ど…

自分への問い

我々は生きています。しかし、生きているというところでは問いは出てきません 。死の自覚のない人間には 、一人ということは出てこないんです。フランスのブレ ーズ ・パスカル (1623−1662 )が 『パンセ 』のちょうど真ん中あたりに、「人間は考える葦であ…

まずは、本尊対面

早稲田大学に五十嵐力氏という『源氏物語 』の専門の学者がおりましたが、あの方が 『源氏物語 』の研究の方法論について、「道作り業 」と書いております 。例えば高速道路を作るのに、まず周囲の地盤などを色々と調べなければいけないでしょう。まず 「ぐ…

お念仏とは

お念仏をよろこぶとか、お念仏を大切にするとか申していますが、そのお念仏とはいかなることなのでしょうか。またさらに率直に言えば、お念仏称えたら救われるとはどういうことなのでしょうか。いまそのおこころをうかがってみるのであります。 大概の人は、…

仏法聞き難し

地元に小牧野遺跡(青森市)という縄文時代の遺跡があります。さぞかし、多くの地元住民が見学に来ているかと思いきや、殆どが県外の縄文遺跡ファンとのことでした。好きな方は、何回もリピーターとして訪れるているそうです。県外からですと、飛行機や新幹…

有無同然

遺産相続をめぐり、バトルを繰り広げている内容の報道をみていますと、私もそういう悩みをしてみたい、と思います(笑)。 お釈迦様は、 「田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ」(大無量寿経)という言葉を残されました。田んぼが無ければ田んぼが欲しいと…

縄文人と現代人

「小牧野遺跡」という縄文時代の遺跡が青森市にあります。今から約4000年前(縄文後期前半)のものといわれています。その遺跡の特徴に、大規模な環状列石(ストーンサークル)があります。当時、呪(まじな)いや祈りを捧げたモニュメントといわれています…

私のテーマ

私のテーマは、短い文章で、いかに分かり安く物事を伝えるか、ということです。勿論、「南無阿弥陀仏」を語る上でも拘っていきたい、と考えています。 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

願行具足の南無阿弥陀仏

「南無阿弥陀仏」という言葉はたったの6文字ではありますが、そこに込められた願いと行は甚大です。阿弥陀さまの命が込められています。

言葉の力

「言葉の力」ということに拘っています。大峯顯 師は「言葉は語る」という表現で「言葉」というものについて掘り下げて語られていました。『南無阿弥陀仏』も然り。単なる言葉や記号として捉えるか否か、では雲泥の差があります。

理屈なしに南無阿弥陀仏

弥陀は南無阿弥陀仏、これ一つを与えることを以て地金(じがね)としていられます。「廻向を首(しゅ)とする」とはこのお示しです。与えることを地金とされ給う弥陀は、いまわけへだてなく救うことを告げ給うています。私たちはこの無碍光(むげこう)のい…

苦しいときの神だのみ

例えば、健康な人が突然病気になるとします。もちろん医師の診断を受け、薬も飲むでしょうが、回復がはかばしくないと、いろいろの行動をし始めます。民間療法は言うまでもなく、お札(ふだ)をまつったり、呪(まじな)いをしたり、方角や年まわりを占った…

摂取不捨の利益

本願の名号の大悲心によって 、〈出離の縁有ること無き身〉と知らされ 、自我のはからいが絶対的に否定されるところにおいて 、そういう者をこそ助けんとする無碍の大悲心は 、煩悩具足の凡心に届いて信心となり 、真実主体となりたもうのである 。これを 〈…

「生きること」について考える

私の日課のひとつは、「生きること」について考えることです。周りからは、かなり馬鹿をしている親父(オヤジ)といわれていますが、心の内は違います(笑)。ここ最近は、今まで以上に、「生きること」について考えています。蓮如上人のお言葉(御文章 第十…

真実の宗教とは(2)

科学の進歩にもかかわらず 、現実の生活には予測の不可能な部分がなお多くあり 、交通事故を初めとする多くの事故や災難 、経済的変動 、現代の医学では治療の困難な病気等 、私たちの生活はやはり 「一寸先は闇 」と言われる面をもっています 。そうした危…

そのかごを水につけよ、我がみをば法にひてておくべき

「そのかごを水につけよ、我がみをば法にひてておくべき」 (蓮如上人後一代記聞書) これは五百年も前のことですが、ある人が蓮如上人に自分の心を素直に告白して言いました。「仏様のお話を聞かせていただき、その場では有り難く尊いものであると思ってい…

真実の宗教とは(1)

現代の人間にとって 、宗教がどういう意味をもつのかということを明らかにするのはなかなか難しい問題です 。というのは 、昔なら誰もが心の深いところで持っていた宗教的要求というものが 、今は失われてしまったからです 。宗教的要求というのは 、現世を…

他力の教え

【原文】 すべてよきひとあしきひと、 たふときひと いやしきひとを、 無礙光仏(むげこうぶつ)の御(おん)ちかひには きらはずえらばれず、 これをみちびきたまふを さきとしむねとするなり。 【唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)】 【現代語訳】 善い…

念仏(南無阿弥陀仏)は先祖供養になるのか?!

蓮如は『蓮如上人御一代聞書』で次のようにも述べています。 蓮如上人、仰せられ候う。「信のうえは、とうとく思いて申す念仏も、また、ふと申す念仏も、仏恩に備わるなり。他宗には、親のため、また、何のため、などとて、念仏をつかうなり。聖人の御流には…