手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

浄土があるかないか、論じる必要性ってありますか?

 一億円の宝くじが当たったことは、当選番号が証明するでしょう。当選番号が発表されてから、当たるだろうか、当たらないだろうか心配する人がいるでしょうか。でも、お金がもらえるのは券と交換してからです。浄土の証明は、名号以外に何がありますか。
 あるかないかを論ずる必要はありません。ただ我々は相待的(そうだいてき)に生きているのですから、肉体を持っている限り煩悩に邪魔されているだけです。そうすると、今は (浄土に )支えられているわけです。つまり(浄土は )私の成立根拠になるんです。どこで倒れても、倒れた場所がお浄土であるわけです。芭蕉の弟子に曾良という妙好人がおりましたが、彼は「行き行きて、倒れ伏すとも、萩の原 」と詠っています。どこで倒れてもお浄土なんです。死んだらしまいだという人が癌にかかって、いよいよあと五日しか命がないとなった時、何ともなしにいられるでしょうか 。そんな人は動物です。浄土は、私がどのようにひっくり返っても心配がない、という私の成立根拠です。選択本願は私のための別誂えですから、私にちゃんと届いているんです。これに遇うている人は、浄土があるかないかを論ずる必要がない。無上の仏果、ちゃんと約束されているわけです。
※別誂え(べつあつらえ):特別に注文してつくること
【浄土 そのうけとり方を中心に 稲城選恵 響流選書より】



「浄土があるかないか」という問い自体愚問です。無意味だからです。浄土の有無を論じる以前に、南無阿弥陀仏のはたらきに気づかされることが大切です。そのはたらきに気づかされますと、自ずとわかります。まずは、このいま・ここで・私が南無阿弥陀仏のはたらきに気づかさせられる、ことです。
そのあとは、南無阿弥陀仏とお念仏を称えるだけなのでした。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏