手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

真実の宗教とは(2)

科学の進歩にもかかわらず 、現実の生活には予測の不可能な部分がなお多くあり 、交通事故を初めとする多くの事故や災難 、経済的変動 、現代の医学では治療の困難な病気等 、私たちの生活はやはり 「一寸先は闇 」と言われる面をもっています 。そうした危機的な状況がたまたま起こると 、日頃合理的な判断をしている人も 、一転して不合理な態度をとります 。攘災招福という現実的な関心の下に神々に祈り 、その加護を求めたりするのです 。その態度そのものを誤りということはできません 。そうした対応もやはり広い意味で宗教的対応と言うこともできましょう 。しかし大抵の場合 、危機的な状況が終ると日常へ帰ってしまいます 。 「もとのもくあみ 」となるのです 。このような対応を真の宗教的対応と言うことはできません 。またそうした 「苦しいときの神だのみ 」に金銭などによって応ずるものも 、真の宗教とは言えないのです 。それではどのような場合が真の宗教的な態度なのか 。それは先にも言ったように私たちが危機的な状況に直面し 、そこに人間存在そのものの在り方 、日常生活においてはかくれていた有限な在り方があらわになるとき 、その自らの有限性を直視してそこから脱却しようとする 、そのことにおいて人間は初めて宗教的な場にあるのです 。そしてそうした人間の有限性の自覚を導き 、それをきっかけとして新しい覚醒への道を教えるのが真実の宗教なのです
【生きることの意味−現代の人間と宗教− 石田慶和 本願寺出版社(電子書籍版)より】



ここでは、「真実の宗教の定義」について述べています。いうならば、ごまんとある宗教の中で、どういう宗教が本当の宗教として成立するのか、ということです。
回答として、
「人間の有限性の自覚を導き 、それをきっかけとして新しい覚醒への道を教える宗教」真実の宗教である、とあります。
このことを、「浄土真宗の教え」に当てはめてみますと、いかがでしょうか?
浄土真宗 中興の祖である蓮如上人のお言葉(御文章 白骨の章)に注目できます。その一部(御文章 白骨の章より)を抜粋致します。
『人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり』
蓮如上人のこのお言葉から鑑みますと、「浄土真宗の教え」は、ここでいわれている「真実の宗教の定義」に合致している、といえます。
あとは、
その教えに理屈なしに頷けるか否か、ということが非常に重要になってきます。そこに、人として生まれた生死問題の解決があります。本来ですと、敷衍して検証していくべきとても重要な内容ですが、簡単にまとめさせて頂きました。
おかげさまで  今日も  南無阿弥陀仏