手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

摂取不捨の利益

 本願の名号の大悲心によって 、〈出離の縁有ること無き身〉と知らされ 、自我のはからいが絶対的に否定されるところにおいて 、そういう者をこそ助けんとする無碍の大悲心は 、煩悩具足の凡心に届いて信心となり 、真実主体となりたもうのである 。これを 〈摂取不捨の利益〉という。
 摂取不捨の基本的な事態は 、阿弥陀仏は 、阿弥陀仏ではないもろもろの存在 (私)と一瞬たりとも離れない不可分不可同な原関係である 。これは万人 (万物)に共通な真実である 。阿弥陀仏は 、今ここの場所となって私たち全てを根底的に置いており 、私たちと不可分の関係となっている 。
 しかるに 、幸いなるこの原関係に私たちが無条件におかれているにも拘わらず 、私たちはそれに気がつかず 、それを無視して生きている 。
 そういう私たちが縁あって仏法にであい 、縁熟して 、尊く有難いこの原関係に気がつく時 、阿弥陀仏の功徳が私たちに活性化し 、私たちの無上の利益となる 。
真宗教学の諸問題 土井紀明 響流選書より】



南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされている状況下において、そのはたらきに気付かされるか否か、ということはとても重要です。腹ペコ状態でありながら、目の前にある美味しい料理に手を付けない人っているでしょうか。気付かないって本当に勿体ないことです。蓮如上人は次のように仰っています。「宝の山に入って生活しているにもかかわらず、その宝物に気付かずに生活することは本当に勿体ないことですよ」と・・・。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏