手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

念仏(南無阿弥陀仏)は先祖供養になるのか?!

 蓮如は『蓮如上人御一代聞書』で次のようにも述べています。


 蓮如上人、仰せられ候う。「信のうえは、とうとく思いて申す念仏も、また、ふと申す念仏も、仏恩に備わるなり。他宗には、親のため、また、何のため、などとて、念仏をつかうなり。聖人の御流には、弥陀をたのむが念仏なり。そのうえの称名は、なにともあれ、仏恩になるものなり」と、仰せられ候う云々 


 念仏は親の供養のために使うものではない、念仏は仏からたまわったものであり、称名は仏恩報謝のためのものである、と言っています。
 こうした真宗の教えと蓮如の考えから真宗門徒は年中行事に対して否定したり簡素化する一面を持つようになったのでした。先祖をオショライサンなどと称して、あたかも生きている者のように精霊を迎え・饗応・送ることは真宗の考えと門徒の生活様式になじまないものだったのです。
 それでは真宗は盂蘭盆会を全て否定したのかと言いますと、必ずしもそうではありません。蓮如以後の本願寺年中行事をみますと、盆の行事は一貫して行われてきました。近世の西本願寺では、献上灯籠が京都の風物詩になっていることは先に述べたとおりです。現在、東本願寺では7月14日と15日、内陣に歴史宗主の御影を掛け、余間に切子灯籠を一対吊り下げて法要を行っていますが、ただそれだけです。
【お盆のはなし 蒲池勢至 法蔵館  P96、P97より】
 


ここでは、西本願寺、東本願寺におけるお盆に対するスタンスも述べられています。
念仏(南無阿弥陀仏)は、仏からたまわったものであり、称名は仏恩報謝のためのものである、と蓮如上人がご教示して頂いているところは、しっかりと押さえておきたいところです。親の供養をはじめ先祖供養として、念仏(南無阿弥陀仏)を唱えるのはお門違いということですね。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏