手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

自分への問い

 我々は生きています。しかし、生きているというところでは問いは出てきません 。死の自覚のない人間には 、一人ということは出てこないんです。フランスのブレ ーズ ・パスカル (1623−1662 )が 『パンセ 』のちょうど真ん中あたりに、「人間は考える葦である 」とか「人間を殺すには一滴の毒で足りる 」ということを書いていますが、そこのところに、人間が動物と違うところは、死ぬということを知っているということである、と書いています 。一滴の毒で死ぬということを知っていると。ですから、死を通さなければ一人ということは出てこない。ですから、私一人に問いを持たないものは宗教ではないんです。これを蓮如上人の言葉でいえば「後生の一大事」ということになります 。ですから、後生の一大事の気にかからない人は動物なんです。
 知識人ほどそういう人が多いんです。私たちには宗教は関係ないという。お寺参りをばかにする人がたくさんおります。そういう人は、家にいる犬と同じです。少しも違わない。自分で自分を侮辱している話になるんです。自分に問いを持たないということは動物と同じだということです。ですから、後生の一大事の気にかからない者は、本当は動物なんです。ところが、そういう私もわかったつもりで、実は気にかからないんです。ですから宗教ほど厳しいものはないんです。みんな自分はわかったつもりでいるけれども、実は自分のことが問題になっていない 。
【浄土 そのうけとり方を中心に 稲城選恵 響流選書より】



私が・いま・ここで、生きているのは何故なのか?という「自分への問い」が、私の生死問題解決の出発点です。生きることを楽しむ、その先は死です。人として生まれてきて本当によかったぁ〜、と死んでいける人生でありたい、と思いませんか。
なぁんと、私の生死問題解決の回答は「浄土真宗の教え」にあるのでした!
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏