手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

まずは、本尊対面

 早稲田大学に五十嵐力氏という『源氏物語 』の専門の学者がおりましたが、あの方が 『源氏物語 』の研究の方法論について、「道作り業 」と書いております 。例えば高速道路を作るのに、まず周囲の地盤などを色々と調べなければいけないでしょう。まず 「ぐるり調べ 」、それから最後は「本尊対面」です 。学者は客観的な「ぐるり調べ」だけに終わってしまいがちですが、「本尊対面 」がなければ宗教の意味がない。このあいだ『毎日新聞 』に宗教学者が、「私は神も霊魂も信じない 」と書いていました。それで宗教が論じられるでしょうか。それは宗教ではない。ただ外から見ているだけです。「本尊対面 」に至るための「ぐるり調べ」に過ぎない。
【浄土 そのうけとり方を中心に 稲城選恵 響流選書より】



この文章を読んでいまして、先人(深川倫雄和上)の以下の言葉が思い浮かびました。
『譬えていえば、ある町へ行くと、お城があって大変高い石垣がある。お城へ登って外を見て、「ああ、いい景色」といえばそれでよろしい。下へ行ってから石垣を見て、「まあ高い石垣。よく組んだもの」と、暇があるから、この石垣の組み方を見てみようではないか。それがお聴聞。お聖教の勉強。上に立って、いい景色を眺めさえすればよろしい。だけども、暇があるから、よくもこんな石垣を組んだものだとその石垣の組み方を調べてみては、「ようこそ、ようこそ」というわけです。調べなくとも、景色に変りはない。石垣がどう積んであるかと研究しようがしまいが、石垣の上からの景色に変りはさらさらない。ないけれども、石垣を研究してみればみるほど、「ようこそ、ようこそ」とご恩が知らされる(佛力を談ず 深川倫雄 講話集P117〜P118 永田文昌堂 より)』


まずは、「本尊対面」です。換言しますと、まずは「南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂く」ということが大事です。時間は限られています。優先順位に留意したいものです。生死問題は自分の問題です。ぽか〜んとしている暇はありません。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏