手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

苦しいときの神だのみ

 例えば、健康な人が突然病気になるとします。もちろん医師の診断を受け、薬も飲むでしょうが、回復がはかばしくないと、いろいろの行動をし始めます。民間療法は言うまでもなく、お札(ふだ)をまつったり、呪(まじな)いをしたり、方角や年まわりを占ったり、あらゆる迷信・俗信にかかわります。病気とは何の因果関係もないそういう行為をするのは、予測しがたい未来につよい不安があるからです。
 病人だけでなく、家族の人たちも迷信・俗信にとりつかれます。「苦しい時の神だのみ」で、信じてもいない神や仏に祈り、お百度をふんだり、病人が大切な人であればあるだけ、あらゆる手段方法を試みます。そしてその効果がないと、「神も仏もあるものか」ということになるのです。こうした対応は、どんなに不合理だとか、無意味だと言っても、当事者たちはやめません。「やむにやまれぬ」気持ちがそこにあって、人を駆り立てるのです。
 従って、そういう不安や、やむにやまれぬ気持ちを転じて、直面している事態をそのまま受けとめる態度を確立しなければ、迷信や俗信にわずらわされることはなくなりません。問題は、迷信や俗信そのものではなく、それをうけいれる人間の側にあると言ってよいでしょう。
 迷信や俗信に左右されない唯ひとつの道は、真実の教えによって人生について正しい見方を得、そして本当の拠りどころを見いだしてどんなことにもゆり動かされぬ心構えをもつことです。諸行は無常であり、いかなるものも永続しないことを知り、万物はとらえるべき実体をもたぬ仮のものであることを思うなら、どうしてうつりかわる事物に心を動かされる必要がありましょう。財産も名誉も、この身体さえも自分のものとしてとらえることのできぬつかのまのものです。それを永続させようと無理につとめたところで、この世界の鉄則を破ることはできません。それよりもその実相をよくわきまえて、真にたのむべきもの、願うべきものを見いだすならば、それが本当の私たちの拠りどころとなるのです。
『歎異鈔』の
「念仏者は無礙の一道なり。そのいはれいかんとなれば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障礙することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなり」
という文章は、親鸞聖人の迷信・俗信に対する態度をよくあらわしています。本願力廻向の信心にめぐまれて念仏申す身になった者を、天地の神々も尊びうやまい、魔性のものや仏教徒以外のものたちもさまたげない、この世の善悪ということも、その人にはもはや問題とはならない、という言葉の中には、いかなるものにもさまたげられない大道を歩む真実信心の人の生き方が示されています。そこに立ってはじめて迷信や俗信からときはなたれると言えましょう。
【生きることの意味−現代の人間と宗教− 石田慶和 本願寺出版社電子書籍版)より】



突然、なにかの不幸が自分に降りかかってきた時、「何かにすがりたい!」という思いが生じるのは分かる気がします。ここでは、そういった迷信、俗信からの離脱は、(阿弥陀さまによって)真実信心を確立させられることによって成しえる、といわれています。つまり、(私が)南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされると、自ずと迷信や俗信の呪縛から解き放たれるということです。
話は変わりますが、今まであまり意識していませんでしたが、自分のこの身体も借りものである、という思いがここ最近強くなっています。だから、どうこうではありませんが(笑)。財産(個人的に何もありませんが)や名誉だけでなく、自分の身体ともしばらくの縁です。


我人生、悔いなし
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏