手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

確かなもの

 本当に確かなものが何処にあるのか、『歎異抄』の後序にある親鸞聖人のお言葉には、


煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたは ごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします
(『註釈版』853頁 『真宗聖典』640頁)


とあります。確かなものは念仏しかない。煩悩具足の凡夫である私も、火宅無常のこの世も確かではないと言われたのです。
 この世に確かなものはありません。この世というのは、利害関係で動いています。人生が上向いている時は、みんな集まってきます。「わしも付いとるで、わたしも味方や、僕もほっとかん」と。集まってくれるのは、上向いている人に近づいておいて損はないという計算があるからです。だから、人生上向いている時は人が集まってくるだけでなく、年賀状も、お歳暮も、中元も沢山届きます。気持ちのいい時です。
 けれども、人生いったん下り坂になってごらんなさい、もう人は近づいてきません。
(中略) それがこの世の現実なのです。
 こんな危なっかしいものの中で生きていたら、「わしが」と突っ張っておらな生きれません。
 逆に本当に確かなものに出遇ったら、「わしが」と突っ張らなくても、「わしが」と言わなくてもいいのです。
 本当に確かなものが何処にあるのか。「念仏のみぞまこと」と、親鸞聖人は教えてくださったのです。
 念仏とは、「如来さまの喚び声」です。では、如来さまとはどういう方か。如来さまというのは、向こうの方から私を見ていて、私の行為が良かったら救ってやろう、悪かったらほっといたろうというような方ではないのです。私を監視しながら、良かったら合格点付けて、悪かったら落としたろうというような方ではないのです。私が何もわからない前から、わが「いのち」を抱きしめて支えてくださっている大きな慈悲を「阿弥陀如来」と言うのです。
【念仏の救い 藤田徹文 響流書房より】



確かなものに出遇うか否か、非常に大事なところです。
出遇う、といいましても、すでに出遇っているのですが・・・・・・
ここでいわれていますように、
確かなもの、それは、念仏(南無阿弥陀仏)です。
阿弥陀さまの喚び声(南無阿弥陀仏)に目覚めさせられるのは、このいま・ここで・このわたし、です。
阿弥陀さまの)喚び声に目覚めさせられますと、「南無阿弥陀仏」と自ずとお念仏がこぼれます。理屈ではありません。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏