手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

悪人正機説 (親鸞思想 最大の逆説)

善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、
「往生なほ往生す。いかにいはんや善人をや」。

(善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」といいます。)   ※ 歎異抄 第三条


 一般的に考えると、後半部の「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」というほうが、理屈が通るように思います。しかし、これは、世俗の理屈です。宗教的な本義に従えば、別の道筋が開きます。
 まず、ここでの「善人」が「自力で修めた善によって往生しようとする人」を意味している点に留意ください。彼らは仏にすべてお任せしようという「他力」の心が希薄で、自分の修行や善根によってどうにかなると思っています。そうした自力の心を持つものであっても仏は救ってくれます、というのが、一文目の「善人なほもつて往生をとぐ」です。
 次に「悪人」ですが、「煩悩具足のわれら」とも言い換えられます。あらゆる煩悩をそなえている私たちはどんな修行を実践しても迷いの世界から離れられません。阿弥陀仏は、それを憐れに思って本願を起こした、悪人を救うための仏です。ですから、その仏に頼る私たち悪人こそが浄土に往生させていただく因を持つ――と考える。それが「いはんや悪人をや」です。
(中略)
 自分で悟りを開けない人のための仏道であり、仏様なのですから、言うなれば、自分で泳げずに溺れている人からまずは救うということなのでしょう。でも、もちろん泳げる人も救いますよ、と付け足す。そんな理屈になっています。
 あるいは解釈を広げるなら、仏の目から見れば、すべてが悪人です。しかし、自分自身は善人だと思っている人間の傲慢さはどうなのか、というわけです。すなわち、自分自身のなかにある悪への自覚に関する問題ですね。
 いずれにしても、ここには一般な社会通念とは異なる価値観が提示されているのです。そして、そこにこそ宗教の本領があると思います。社会とは別のものさしがあるからこそ、人は救われるのです。社会通念と同じ価値体系しかもたないのであれば、宗教の存在意義はほとんどなくなってしまうのではないでしょうか。
歎異抄 2016年4月 NHKテキスト 釈 撤宗 P32〜P35より】


逆説 ぎゃく‐せつ
1) 一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現。「急がば回れ」など。パラドックス
2) ある命題から正しい推論によって導き出されているようにみえながら、結論で矛盾をはらむ命題。逆理。パラドックス
3) 事実に反する結論であるにもかかわらず、それを導く論理的過程のうちに、その結論に反対する論拠を容易に示しがたい論法。ゼノンの逆説が有名。逆理。パラドックス
デジタル大辞泉より】



宗教の本領について、
ここでは以下のように説明されています。
「社会とは別のものさしがあるからこそ、人は救われるのです。社会通念と同じ価値体系しかもたないのであれば、宗教の存在意義はほとんどなくなってしまう」
まさに、その通りだと思います。


「悪人こそが救われる!」
誠にありがたいことです。
自分のはからいを超越したものにおいては、
どうあがいても自分の力は及びません。
超越したものに依らなければなりません。
超越したものに依る、つまり、阿弥陀さまにただおまかせ、ということです。
自分中心の目線ではなく、阿弥陀さま目線で理解するこが大事だと思います。
すでに南無阿弥陀仏が用意されていることに、ホッとさせられます。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



歎異抄 (西本願寺蔵本