手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏さまのメッセージをそのまま聞く

 聞くという宗教体験だといっても、なにか摩訶不思議な声が空中から聞こえてくるのではありません。具体的には仏さまのメッセージを取り次いで下さる布教使の声をそのまま聞くだけです。あるいは仏さまのメッセージを取り次いで下さっている先生の書かれた本を通して、その書かれた言葉を真受けするだけです。仏陀のメッセージの中には、その内容については神秘的としかいいようのないものが含まれていますが、そのメッセージを私が聞くという体験それ自体には、いかなる神秘もありません。単に「そのまま聞く」ということですから。
 それなら簡単ではないかと言われるかもしれませんが、これがとても難しいのです。わたしたちはえてして、人の話を自分の枠組みにおさまらない話は、いちおう聞く努力あるいは聞くふりはしますが、内心では「ようわからん」といってはねつけたり、「それはこういうことか」というふうにして自分の方で持ち替えてしまうことが多いのです。人の話をスッキリそのまま聞けることは、なかなかあるものではありません。まして仏さまからのメッセージですから、超世間的な内容です。それをわかろうわかろうとはからうこと自体が、もうそのまま聞いてはいないということです。かといって「わからん」というのも、拒絶しているのですから同じことです。仏さまは何も宇宙人のように「@*\♯」とかいった言葉を発しておられるのではなく、人間の言葉に変換して下さった上で、メッセージを下さっているのですが、それがそのまま、すぐに受け入れられないのです。
【仏教はなにを問題としているのか 松尾宣昭 永田文昌堂 P124~P126より】




仏さまが、人間の言葉に変換して下さった言葉が『南無阿弥陀仏』です。
南無阿弥陀仏をそのまま受けいれる」ということが「仏さまのメッセージをそのまま聞く」ということです。
「仏さまのメッセージをそのまま聞く」を分かり易い表現でいいますと、「阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきに気付く」ということです。そこに自分の枠組みといった「自分のはからい」は微塵もありません。阿弥陀さまの枠組に、わたしが摂りこまれてしまうのです。
おかげさまで 今日も なむあみだぶつ


『仏願の生起本末を聞く』
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20110914



私の枠組みが外れた(イメージ)