手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

これから仏教を学ぼうとしている皆さんへ

 宗教教育が皆無と言っていい現代の日本社会では、宗教、信仰という事柄が、正しく理解されないまま、ただ風習化しているように感じます。宗教教育とは、一宗、一派の勧誘でも、概要説明でもないものです。宗教機能のメリット、デメリットを正確に教えることなのです。
 また、宗教とは、尊崇すべき神聖なものとの関わりであるといわれます。その神聖なるものを仰ぎ、それを価値判断の依りどころとして生きようと努力することです。「大慈悲」「ホトケ」と仰いで生き抜こうとする者を仏教徒というのです。
 元来、人間の判断は自己経験に基づく価値観が中心となっています。その判断の中核に位置していた自己経験が最も外郭に移り、今まで意識もしなかった「神聖性」が中核となり、主客が逆転することを回心といい、宗教、信仰の成立といいます。
 何を神聖とし、判断の中心とするかが宗教の分かれ目といえるのです。その意味で無宗教は成立しません。「神も仏もない」と言う人は、自らを神聖視している「自分教徒」と言うべきです。また、自己の自由さを拡大するための経済力を必要以上に重要視するならば「経済教徒」であると思います。本当は神聖視すべきものではないのですが、現代の日本社会の宗教的現状は「自分教」「経済教」の蔓延状態と言わざるをえません。それに対して本来宗教と言うべきものが風習化しているのが現実です。
 これから仏教を学ぼうとしている皆さんも、「南無阿弥陀仏」と称えることで、自身の生き方を省みることから、始めてはいかがでしょうか。
【65歳からの仏教 本願寺出版社 P118,P119 より】



南無阿弥陀仏」と口に出してお念仏をとなえることは尊いことです。
遅かれ早かれ、理屈なしに南無阿弥陀仏とお念仏がこぼれるようになります。
阿弥陀さまが命を懸けて保証されているからです。
「仏語に虚妄(こもう)なし」といわれますように、仏さまにウソという言葉はありません。
ありがたいことです。
今日も 生かされて 南無阿弥陀仏



提案(イメージ)