手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

発想の転換

 『歎異抄』には次のようにあります。


善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。
(『真宗聖典』640−641頁・東本願寺出版部)
 

 「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」といわれますと「無責任なことをいうなぁ」と思うかもしれません。私たちはいつでも、善悪を問い、上下や損得を分かちます。要するに二分律の世界を生きているのです。二分律的な対立の中でものを考えていますが、実はその二分律の両極のどちらも、私たちの実状にかなうものではありません。そのため、その二極の対立を超えるものとして、仏教には「中」という思想があります。「中」というのは、私たち人間の愚かな思慮の世界においては、善も悪もないということで、善悪を分けて「私は善人であ
り、あいつは悪人だ」と分別をするような力量はないことを意味しています。実はわたしたちは、親鸞聖人のおっしゃるように、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」としかいえない立場なのです。善悪など私たちにはわからないのです。本当の善というものは「如来の御こころ」にあります。親鸞聖人は「その如来の御こころが善とお思いになったのと同じくらいのことを知っているのならば善といおう。如来が悪しきもの、悪といわれることと同じくらいにわかるのであれば悪といおう」とおっしゃっています。


 ところが、残念なことに、私たちは「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界」の存在であって、愚かな人間であり、とても「如来の御こころ」と同じような善悪を知ることのできるような存在ではないのです。私たちのやっていることは「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなき」としかいいようがないと見限っておられます。しかし、そういう私たちだからこそ、念仏を速やかにいただく身になれるというのです。愚かな人間だからこそ、念仏をいただくことができるのです。この念仏をいただくということは、如来誓願不思議の力に身をあずけて、摂取不捨の利益に浴するということですから、先ほどの二種深信と同じく、私たちが「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」と自らの価値観が破られることによって、はじめて自由に生きることができるという道理を説いてくださっているのです。


 今、私たちは発想を大きく転換する必要があるのではないかと思います。これまで善悪や損得を考える基準としてきたあらゆる価値観に、少しばかり批判的な目を向けてみる必要があるのではないでしょうか。わたしたちには特段の根拠もなく信じ込まされた分別の基準があります。この「常識」一度覆されてみないことには、真に出遇うべきものが見えてこないように思えます。
【非常識のススメ 浅野玄誠  真宗文庫より】



我々の常識は、時代背景等によってコロコロ変わります。
阿弥陀さまから見れば、私の常識は非常識です。
確かなもの、不変なものは、阿弥陀さまの常識です。
阿弥陀さまの常識に依る。そこに安心があります。
今日も 生かされて 南無阿弥陀仏



Is it an ideal or a reality ?