手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「助ける」念仏 「助かる」信心 

歎異抄』をみますと、第一章に、
  弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。


信心を要(かなめ)と、こうおっしゃてる。念仏はもとだけど、念仏が念仏になる要は信心だ。これは非常に大事だ。 (中略)
 例えば扇でも要がなかったら使いもんにならんのです。那須与一(なすのよいち)が壇の浦で矢を射ったでしょう。あの時に、扇の要にあたったという。だから扇が散ってしまった。紙だけにあたっとったら、矢は抜けとったかも知れん、穴があいただけで。「あたった」とは言うでしょうけれども、要にあたったから見事に扇が飛んでしもうた。要というのが非常に大事なのです。念仏を念仏にするのも要です。要がなかったら扇が使いもんにならん。信心がなければ、念仏が念仏にならん。だから、われわれにとって大事なのは信心だ。これをはっきりしておきたいと思います。
 われわれを助ける、それは念仏です。摂取不捨(せっしゅふしゃ)だ。助ける念仏をいただいて助かった。つまり、「助ける」念仏。「助かる」信心。ちょっと違うでしょう。われわれにとって大事なことは、「助かる」ことではないですか。「助ける」阿弥陀さんを問題にする必要はない、さしあたって。われわれにとっては、「助かる」ことが大事なんだ。だから、われわれにとっての大問題は信心。信心が問題なんです。
浄土真宗 −往生と不退−  仲野良俊  真宗文庫(第二講「即得往生」)より】



ここで、「念仏が念仏になる要は信心だ」「信心がなければ、念仏が念仏にならん」といわれています。
分かり易くまとめますと、
『念仏(南無阿弥陀仏)』となって、
南無阿弥陀仏のはたらきは、このいま、ひとりひとりにはたらいています。
私からいえば、そのはたらきに気付かせて頂くことが非常に大事になってきます。
つまり、『信心』を(阿弥陀さまから)賜るということです。
私にとって、
南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるか否か、が非常に大事になってきます。
「助ける」念仏は、すでに用意されています。
「助かる」信心はいかがでしょうか?
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏