手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

念仏は仏の呼び声

 「南無阿弥陀仏」と称えることは、もともと「この世界に充ち満ちる限りない光と命のはたらきにおまかせします」という意となり、自分自身の生きる方向性を表す言葉なのです。
 ところが親鸞は、南無を「おまかせします」ではなく、「まかせてくれよ」と仏に呼ばれているのだと領解(りょうげ)します。自分の称えた「南無阿弥陀仏」が、仏の呼び声となって聞こえてくる、それが他力の念仏なのです。「称える」ことは、すなわち「聞くこと」である。「称名」は、すなわち「聞名(もんみょう)」である、ここが親鸞の念仏の本質です。「聞名」という思想は、『無量寿経』にも繰り返し出てきます。親鸞はそこに注目したのです。浄土真宗の教学では、「称即聞」「聞即信」――「称えること」「聞くこと」「信じること」の三つが一つであるとされています。浄土真宗の大きな特徴です。親鸞の念仏と信心を考える上でも重要です。
【歎異抄 2016年4月 NHKテキスト 釈 撤宗 P48、P49より】



「他力の念仏」について、原口針水 和上は
「我称え われ聞くなれど 南無阿弥陀仏 連れて往くぞの 親のよび声」
という言葉で的確に言いあらわされています。
ジィ〜ンと、心に響く言葉ですね。
今日も 生かされて 南無阿弥陀仏



心に響く (イメージ)