手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

浄土真宗は 「信じる教え」 or 「聞く教え」

 浄土真宗は、「信じなさい」という教えではないのです。「聞きなさい」という教えです。だいたい、「信じてます」というのは、「疑っている」のです。疑いや、不安が起こってくると、私たちは「信じてます」と言うのです。本当に信じている者は、「信じてます」とは言いません。
 子どもは「お母さん、信じてます」とは言いません。そんなことを言われたら、お母さんはかないませんよ。「お母さん、おはよう。今日も信じてますよ。お父さんも信じてますよ」と、子どもに言われたら、「いい加減にしなさい」と言うでしょう。
 「信じてます」というのは「疑っている」ということです。だから、親子で「信じてます」と言う必要はないのです。
 男女の仲は、時々、「信じてます」と言っておかないといけないのです。なぜだかわかるでしょう。男女は油断しておったらどっち向いて行くかわからないからです。危ないと思ったら、「あなた信じてますよ」と言うのです。
 浄土真宗は、何度も言いますが、「信じてます」という教えではないのです。間違いのない、お慈悲が「聞こえた」という話です。「聞こえた」まんまが出遇いです。その間違いのないお慈悲が、今わが口を使って、「なもあみだぶつ」、「どんなことがあってもあなたを捨てない私がいる」と喚んでくださっているのです。だから、間違いのないものを、称えるまんま「聞いて」いくのが、浄土真宗です。
【念仏の救い 藤田徹文 響流書房より】



ここで教えて頂いていますように、
浄土真宗は、「信じなさい」という教えではありません。
「信じなさい」ということは、自分の力をもってして挑んでいかねばなりません。
つまり、自力です。
浄土真宗は「聞きなさい」という教えです。
「聞きなさい」ということは、「すでに用意されているモノ」があって、それに従うということです。
つまり、他力です。
浄土真宗は、「祈る」教えではありません。世間一般の宗教とは、一線を画しています。
「すでに用意されているモノ」は、「南無阿弥陀仏」です。
ここでいわれてる『間違いのない、お慈悲が「聞こえた」』、ということを別な表現でいいますと、「阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かされた」、ということです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏