手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

浄土真宗でいう信心

 『歎異抄』の後序では、第一に信心の同異ということが、問題として挙げられている。
信心が違うとは、いったいどういうことであろうか。我われが信心というと、念仏を信ずるのも、キリスト教を信ずるのも、鰯の頭を信ずるのも、皆同じであると考えがちである。もし信心を各人の体験であると考えるならば、各人の信心はすべて異なったものであるといわねばならぬであろう。それでは信心が同一であるということはいかにしていえるのであろうか。それには念仏の信心ということをあらためて考えねばならない。念仏の信心は、念仏を信ずる信心と考えてはならない。そのような信心は念仏を対象とした信心になってしまうから、鰯の頭を信ずる信心、神風が吹くと信ずる信心と同様に、各人の体験によって異なるものとなってしまう。信心は念仏を対象とした信心であると考えるならば、念仏は超越であり、信心は内在ということになる。念仏の信心ということは、念仏を我われの心に理解し信ずることではなくて、我われが念仏のなかに召されることでなければならない。自己をこえた自己を見いだすことであるといえよう。体験という立場では、ほんとうの念仏の信心が成り立つことはできないであろう。念仏の信心とは、念仏として回向されている信心である。かく考えることによって、はじめて信心の同一ということがいいうるのである。
【安田理深集 上 教学研究所 編 東本願寺 P46、P47より】



ここで、
「念仏の信心とは、念仏として回向されている信心である」とあります。本願力回向ということです。つまり、出発点は阿弥陀さまなのです。
浄土真宗でいう信心』は、世間一般でいうところの「わたしの願望、わたしの思い、わたしの計らいで作り上げられた信心」とは、まったく違います。
わたしを超越したものにおいては、どうあがいても、わたしの力は及びません。残念ながら、自力無功なのです。
私の計らいを超越したもの、つまり、阿弥陀さま(南無阿弥陀仏)に委ねるしかありません。(わたしが)委ねるといっても、厳密にいえば、(南無阿弥陀仏のはたらきによって)委ねさせられるのです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



おはたらき(イメージ)