手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「信は即ち念、念は即ち信」

 正信と念仏とは信と念です。これは『倶舎論』で心所(しんじょ)の研究をするときに、信と念とを別々にするのであります。また、八正道といって仏道修行の正しい行を示すところにも、正信の他に正念をあげてあります。この二つは違った心の働きであります。
 どっちかというと、信は受けること、念は向うことであります。信ずるということは向うの心がこちらの胸の扉を開くこと、向うの思いでこちらの心が開けることである。ところが、念ずるということはこちらが向うの扉を開いた心に入ることであります。だから、信は受けることで、念は向うことであります。信は受動的であり、念は能動的であります。信と念とはそれだけ味わいが違うのです。
 ところが、もう一つその底に入って考えますと、信という心の働きの底に何物かがある。信の力を味わいますと信の心の底に念がなければならぬのであります。というのは、ある人のまことをすっかり真受けにする、その時、もうその人と自分との間には何らの隔たりもない、その心の状態が信心である。そうなると、こちらの心の全体が向うの人の方にいって抱かれておることになるのであります。
 もし、この事に疑いがあるようでは向うの心を信じておるのじゃないのである。自分のすべてを引受けて下さるということが、自分の胸にはっきりするということが信である。そうなると、信の底には、向うの心を念ぜずにはおられぬカラクリがちゃんとおさまっておることが分かるのであります。
 また、念というのは、こちらの思いで向こうの心の扉を押し開くのである。確かな信で向うの心を押し開くのが念です。夜いくら遅くなっても我が家に帰るのだと気兼ねなしに帰って来られる。また、帰らんでも気遣いがない。また、親しい友達の家の戸を叩いて入られるということにも既に向うの人の心の全体を自分のものに映しておる信があるからである。念ずるということは、確かな信から現れるのです。
 ここまで来れば、信の底に念があり、念の底に信があることになる。信は即ち念、念は即ち信です。信と念とは一如であります。そうすると、仏を正信するということと、仏を念ずるということとは、その働きの上には変わりがあるが、根底において一つであるのである。これによって、衆生が仏に対して抱く信心は、仏の心がそのまま衆生の中に宿らせたものである、とおっしゃった(親鸞)聖人の心持ちがよく分かるのであります。
正信偈の講話 暁烏 敏 法蔵館 P23、P24より】
※一部、現代語に改変しました



「信は即ち念、念は即ち信」
ということを非常に分かり易く説明されています。
一心同体 南無阿弥陀仏ということですね。納得です〜。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏