手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

涙流しながらの自慢

 自分はとてもひとさまの前に顔を出せるような心ではないといって、利口ぶって反省をしておるというような姿を見せるのも自力だといわれるのです。私はこれがいちばんきついと思います。わが身を頼むとか、わが力を頼むとか、わが心を頼むとかいうほうは、いわれれば「ああ、そうかな」というけれども、自分は救われない人間だとか、自分は悪い人間だとかいうことを、利口ぶって、さかしくかえりみるというのです
 ついでに申しますけれども、慢ということが仏教でいわれます。自慢、高慢の慢で、たかぶっているということばです。だから慢というと、普通に考えると、肩をいからせるのが慢だとお思いになるでしょう。ところが慢の中でいちばんたかぶっている慢は卑下慢なのです。私のようなものはとても駄目でしてというて、これがいちばんの慢、いちばんたかぶった心なのです。仏教ではそういっています。
 案外宗教はここでひっかかるのです。私のようなおぞましいものがといったとき、それをさかしくかえりみる心でいっているかぎりは、それは高慢なのです。自慢しているのです。人間はなにもいいことばかり自慢するとはかぎらないのです。おれは悪い人間だというのも、実は涙流しながら自慢であるという厄介な生き物を人間というのです。ともかくそういうものを全部ひっくるめて自力と親鸞聖人はおっしゃるのですから、自力の信心というのはそれでおわかりになるでしょう。そういう要素が入っている信心は全部自力作善です。そういう心で善をなすということを自力作善というのです。自力の心で善をするということです。 
親鸞の宿業観 歎異抄十三条を読む 廣瀬 杲 法蔵館 P186、P187より】



「涙流しながらの自慢」
そんな心に気付かされゾォッとさせられます。自力の心、ホント、しぶといです。
阿弥陀さまに依るしかありません。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏