手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

つもり君、つもりさん

長い間仏法にかかわって生活をしてきておればおるほど、わからんものもわかったつもりで通り過ぎていってしまうのです。そして人が質問すると、そんなことがまだわからんのかといって、自分がわからない部分を隠してしまうということがなければいいのですけれども、あるとこれはたいへんです。それは、人が悪いとか、人がいいとかいう話ではなくて、やはり仏法を聞くということにも妙な羞恥心というのがあるのです。ここまで聞いてもまだわからないというようなことを人前にさらしたら、仏法を聞いてきたことがなんのために聞いてきたのかわからないことになってしまう。だからわからんけれども、わかったつもりになろうという、つもりの宗教、つもりの御信心になってしまうのです。
親鸞の宿業観 歎異抄十三条を読む 廣瀬 杲 法蔵館 P107,P108より】



「私の生死問題解決」において、私のプライドは何の意味もありません。周りを気にする余裕があるうちはまだまだです。まさに、自分大好き人間の特徴といえるでしょう。
「つもり君」や「つもりさん」に阿弥陀さまの存在はありません。阿弥陀さまに思いっきり体当たり、いいじゃないですか。しっかり受け止めてくれますよ。体当たりさせてくれるはたらきも実は阿弥陀さまなのでした。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏