手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

生死問題を考える(生死一如)

 殊に人間には、生の欲求と必然の死の襲来との矛盾に対する解決、また生と生との願いの衝突に対する解決が必要となってきます。人間の必然的な欲求のさしとめられたところに、ある何ものかが本能的に出にゃならん。それが智慧であります。智慧の光に照らさなければこの荒魂の発動する世界のおさまりがつかぬ。また無限の欲求としての生命が光によって限られているこの矛盾の解決がつかぬ。人生は一面矛盾です。生命と死の矛盾です。それが智慧の光に照らされて始めて生と死というものに対する解決が与えられ、人生というものがわかるのであります。
 清沢先生が「生のみが我等にあらず、死も亦我等なり」と仰せられたお言葉がよく味わわれます。生きていることだけが自分ではない。死ぬことも自分である。それを我々は生きていることだけを見て自分の死をよそに考えておるから悩みが出てくるのであります。生も死も共に自分の姿だ。
正信偈の講話 暁烏 敏 法蔵館 P40より】



人生、最大の悩みは、
「死にたくないけど死んでいかなければならない現実があるということ」です。ここでは、その悩みを解決するには、「智慧の光に照らされて始めて、その(生死問題の)解決が与えられる」とあります。
換言しますと、
『いま・ここで・わたしに、はたらいている南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされることによって私の生死問題は解決する』ということです。
臭い物には蓋をする、のではなく、その蓋をあけて真正面から私の生死問題に向き合いたいものです。
なぜなら、その解決策はすでにあるのですから。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏