手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

言葉のはたらき

語られた言葉
われわれの学者のなかには、書記言語、すなわち「書かれた言語」にしか意味を認めない人もいます。しかし、本当に重要なのは「語られた言葉」です。なぜなら、そこには言葉だけではなくて身体的なものが全部ひっくるめて存在しているからです。
親鸞 いまを生きる 朝日新書 姜 尚中 P48より】


語られた言葉の大切さ
 二九歳の親鸞法然のもとに通ったとき、法然は六九歳でした。親鸞には、法然に聞きたいことが山のようにあり、多くの質問を投げかけたに違いありません。
 姜先生がおっしゃったように、語られた言葉、オーラルな言葉、そういうものが、教えにおいては大事なのだと思います。
 人が全存在をかけて、生きている内実を語り、それをその場で聞くこと。それはいったん文字化され客観化された文章に触れるのと違って、時間、空間、そして湿度などを肌で感じながら共感することができます。その人の体験したことに、より近いかたちで触れることができるのです。
 私自身も、運よく京都で、親鸞学徒の泰斗である曽我量深先生(一八七五-一九七一)や安田理深先生(一九〇〇-一九八二)の教えに触れることができました。「お育て」というのですが、自分で育とうと思ったわけじゃないけれど、その教えを、わからない、わからないと聞いているうちに、その聞いた言葉が育ててくれるのです。言葉で何回も何回も考え直していくうちに、ああ、そうだったのかとわかるときがきます。
 ところが現代では、新聞やテレビ、雑誌、インターネットなどからひっきりなしに情報が流れています。人々はそれを受け取ることに精一杯で、何かを探そうとしたときに、師となる人を訪ね、じかに触れて、先生が何を考えていらっしゃるかを直接聞くということが珍しいことになってしまいました。
 肉声で伝えられる教えに耳を傾け、身体に通すというのは、生きた言葉に触れ、それを自分自身で確認しながら、本当かどうか、時間をかけてたずねていけることなのです。
 促成栽培みたいに与えられた栄養で、どの株も同じように育つという考え方では、本当の、人間のいのちが燃えるような情熱は伝わりません。一度、尊敬する人からじかに話を聞くことの大切さを見直してみるとよいのではないのでしょうか。
親鸞 いまを生きる 朝日新書 本多弘之 P67〜P69より】



まさしく、「言葉は語る」ですね。
南無阿弥陀仏も然り。
南無阿弥陀仏は単なる言葉、記号や呪文ではありません。
南無阿弥陀仏には、阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきが込められています。
そのはたらきを感じとれる身になりたいものです。
今回、この本を図書館で読破しました(笑)。かなりオススメです。早速、アマゾンで注文致しました。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏