手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

宗教の救い

 宗教の「教え」は、「情報」とは異なります。情報をあつかうスキルは熟達していきますが、教えに身をゆだねることは簡単ではありません。特に現代人はその傾向が強いと思います。
 情報というのは新しいものが手に入れば、それまでのものは不要になります。役に立たないからです。ですから、情報は次から次へと消費されていきます。
 しかし、「教え」は、一度出遇ってしまうと、もはや出遇う前にはもどれません。時には「こんなことなら知らない方が良かった」と感じることさえあります。なぜなら、「教え」は自分自身が問われるからです。
 昔から、「仏法は邪魔になるまで聞け」と言われています。仏法を聞けば聞くほど、自分自身のあり様が問われるため、以前は気にならなかったものが気になってきます。ついには「仏教の教えに出遇わなければ、こんなことに悩まなかったのではないか」と邪魔になるのですね。それだけ仏法は我々の存在そのものに肉迫してくるのです。
 消費されてしまうような情報では、私たちは救われません。私自身のあり方が問われ、存在が揺さぶられるような教えに出遇う。そして、「ああ、この教えは私のためにこそあった」となれば、もう他の教えは必要なくなります。そこに「宗教の救い」は成立します。
報恩講 如来大悲の恩徳は P9、P10 釈 撤宗より】



本当の宗教というものは、現世利益に焦点をあてた教えをいうのではなく、自分自身の生死問題に鋭く切り込んでいる教えをいうのではないでしょうか。
ここで、「教え」は、一度出遇ってしまうと、もはや出遇う前にはもどれません、とあります。
つまり、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂きますと
いままで迷いに迷った世界から解放されます。ですので、迷いの世界に後戻りすることはありません。有難いことであります。「宗教の救いとは何ぞや」について、今一度考えてみたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏