手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

念仏衆生摂取不捨

 善導大師は定善義に、「念仏の衆生の身・口・意の三業と、阿弥陀仏の三業とはお互い離れない」と仰っています。
 これは「念仏衆生摂取不捨」の解釈として述べられています。阿弥陀仏の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまわない、それは念仏の衆生阿弥陀仏が親しい関係にある(親縁)からで、どのように親しいかを仰る言葉なのです。
 念仏の衆生が、口に南無阿弥陀仏の名をとなえ(称)、身体で阿弥陀仏を礼拝し(礼)、心で阿弥陀仏を思う(念)のを、阿弥陀仏がお聞きになり(聞)、ご覧になり(見)、お知りになる(知)。衆生の称・礼・念と阿弥陀仏の聞・見・知が親しい関係にあって離れない、それを衆生の身・口・意の三業と、阿弥陀仏の三業とはお互い離れないといわれるのです。ですから、一段目に、「拝む手も、となえる口も、信じる心も、みな阿弥陀仏の本願のはたらきである他力による」といい、衆生の三業と仏の三業は一つになるのです。
【『安心決定鈔』を読む 佐々木 隆晃 大法輪閤 P109、P110より】



『念仏衆生摂取不捨』
ほぼ毎日、目にする大変力強い言葉です。
といいますのは、ジョギングコースの最終地点に位置するお寺(浄土宗)の墓石に刻まれているからです。この言葉を目にしますと、心なしかパワーが漲ります(笑)。
「拝む手も、となえる口も、信じる心も、みな阿弥陀仏の本願のはたらきである」
いうなれば、一心同体南無阿弥陀仏、ということですね。
阿弥陀さまにおまかせ状態、こんなに楽で安心なことはありません。
このいま、(誰もが)南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂きたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏