手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信心は仏心である

 親鸞聖人は、信心、すなわち無疑心のことを、「信文類」では、しばしば「疑蓋雑わることなし(ぎがいまじわることなし)」とか、「疑蓋間雑(ぎがいけんぞう)有ること無し」とも言い表されています。「蓋(がい)」とは、覆い隠すものという意味で、一般的には煩悩は真理を覆い隠すというので、煩悩のことを蓋と呼んでいました。おそらく親鸞聖人は、疑は如来の本願を覆い隠すという性質が強いところから、とくに疑蓋という用語を使われたのでしょう。また「間雑」とは「まじわる(まじる・まざる)」ということで、不純物がまざることを意味していました。清浄真実な智慧の言葉である本願を聞きながら、凡夫のはからいをまじえることによって、真実なる法を変質させてしまうことを疑蓋間雑といわれたともいえましょう。
 また蓋とは容器の蓋を意味していますから、「疑蓋間雑有ること無し」とは、疑いという蓋をしたまま水を注ぐならば、水は蓋にさまたげられて器(うつわ)に入らないように、本願の法水は、疑いの蓋に隔てられて、私たちの心の器に届かない状態を表そうとされたともいえましょう。凡夫のはからいという心の蓋さえなければ、法水は、衆生の心に入り満ちていきます。その意味で、信心とは疑いのない状態であるということは、本願の法が私の上に届いて主体化していることでもあったのです。信心は、私たちの上に実現している事実ですが、その本体は、人間の心ではなくて如来の本願であり、仏心だったのです。
【本願のこころ 梯實圓  法蔵館 P92、P93より】



「信心は仏心である」素晴らしい言葉です!
(信心とは)疑いのない状態である、ということは、
阿弥陀さまにまかせきっている状態である、ということです。
この「状態」という言葉がつきますとより分かりやすい、ですね。
つまり、いま現在、そういう状態であるということです。
いまの(南無阿弥陀仏の)はたらきに、いま気付かされる
つまり、このいま、わたしの「あ〜だ、こ〜だ」といった(阿弥陀さまのお約束に対する)詮索が一切なくなったとき、一心同体 南無阿弥陀仏 となります。
そこにあるのは大安心です。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏