『歎異鈔』では、明確な、阿弥陀仏への信仰が要求されている。となると、阿弥陀仏はどこに存在するのか、が問題となるし、かりにその物理的存在を問う必要がないとしたら、阿弥陀仏の存在をいかに納得するのか、が重要な課題となる。このような阿弥陀仏の存在を納得するプロセスは、日常的な、普通の考え方とはずいぶん異なることになろう。とくに、阿弥陀仏の存在を納得しなければならない必然性の有無が、こうした宗教的思考を受け入れるかどうかの分かれ目となろう。いずれにしても、常識から一歩踏み込んだ思考が要求されることには変わりはない。
【無宗教からの『歎異鈔』読解 阿満利麿 筑摩eブックスより】
「阿弥陀仏はどこに存在するのか」と問われれば、
『ここに存在する』としか答えざるを得えません。
「阿弥陀仏の存在をいかに納得するのか」と言われれば、
自分から納得する必要はなく、(阿弥陀仏からその存在を)納得させられる、と回答せざるを得ません。これも縁と片付けていいものかどうか分かりませんが、理屈ではありません。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏