手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

他力の信心


2017法語カレンダー(真宗教団連合


 今月のことばは、親鸞聖人の『浄土和讃』の中、「諸経讃」と呼ばれる一首です。さまざまな経典の言葉を通して阿弥陀さまと浄土の功徳を讃嘆するもので、この一節では信心について示されています。
 はじめに「大信心は仏性なり(大いなる信心は仏性である)」とあります。信心とは私が信じるのであって、私の心のことをいうのだとすると、そこに大の字がついて大いなる信心と表現されるのはおかしいのではないでしょうか。親鸞聖人が、自分の心をそのように立派なものとお示しになるとは、考えにくいように思います。
 親鸞聖人は、私の心、すなわち凡夫のはからいによる思いがいかにたよりにならないものであるかを、明らかにしてくださいました。この私が信じるとか、信じないとかいった場合、いくら言葉を尽くして信じているといっても、あるいは確固たる信念で信じ続けるなどといっても、自分の考えで信じている以上、都合が悪くなると信じなくなってしまします。
 親鸞聖人がお示しになった信心とは、他力の信心です。阿弥陀さまから与えられる、たまわりたる信心のことです。阿弥陀さまから回向されるので大信心(大いなる信心)といえるのであり、金剛心や一心ともあらわされるのです。
 阿弥陀さまは、たよりにならない私の心を自分で何とかせよとおっしゃるのではありません。私たち衆生が煩悩を身にそなえた凡夫であることをはじめから知っておられて、救わずにおかないと大いなる慈悲の心で本願をおこされたのでした。
【月々のことば 佐々木 隆晃 本願寺出版 P65~P67より】



一般的に、信心といいますと、「私が信じる」と絶えず主語が私になります。
そのような信心は、わたしの思いや都合で、いかようにもなります(笑)。
「世界に宗教多し」といいましても、浄土真宗の教えはそれらの宗教(他宗教)とは一線を画します。浄土真宗は、本願力回向の教えともいわれます。信じる心さえも阿弥陀さまから賜る、というのです。まことに凄いといいますか有難いことです。
「私が」信じているように思いますが、実は阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきのお育てに授かっているのでした。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏