手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

死に様は無関係

 人は必ずしも臨終を平静に迎えるとはかぎらない。どのような悪相(あくそう)をもって終わることになるかもしれないであろう。そもそも苦しい息のなかで、念仏を唱えることはとても難しいのではないか。にもかかわらず、死ぬ瞬間には妄想を懐いてはならない、心静かにして念仏をしてはじめて、阿弥陀仏は来迎する、さもなければ、来迎はない、とまで主張するのは、現実を無視した、きわめてかぎられた達人のための教えとなるではないか。こうした主張は、現代でも、臨終に悪相のものは地獄へ堕ち、柔和な相のものは極楽へ生まれる、という俗信の一端となって生きている。
 この問題は法然を悩ませた、信者たちの誤解の一つでもある。法然は手紙のなかで、本願念仏を誤解している人々は、臨終の際に、自分が心静かに念仏することによって仏の来迎を勝ちとるのだ、と信じているが、それは逆であって、阿弥陀仏の来迎の目的は、臨終の念仏者を平静に保つためなのであり、阿弥陀仏の来迎は、平生の念仏のおかげによる、とのべている(『定本法然上人全集』第七巻、P154〜P156)。
 さらに法然によれば、阿弥陀仏が迎えに来られても、死の苦しみが軽減されるわけではない。死の苦しみはいかなる人でも免れることはできない。ただ、臨終の苦しみは髪の毛一筋を切るほどの瞬間的なものだろう、悶絶するかもしれないが、息が絶えれば、あとは阿弥陀仏の国だ、と念仏者を励ましている(『定本法然上人全集』第七巻、P217)。
 このように見てくると、念仏を「自行になす」はたやすく、阿弥陀仏の誓いのままに念仏することがいかに難しいか、がよくわかるであろう。本願念仏の理解は、時代の差を超えて難しい人には難しく、わかる人には容易に分かるのである。
無宗教からの『歎異鈔』読解 阿満利麿 筑摩eブックスより】



大事なことは、生きているこのいま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされているか否か、です。死に方や死に様はまったく問題になりません。「あの人は眠るように安らかに亡くなったから浄土に往生したでしょう」と、残された人は思っている(思い込ませている)かもしれませんが、視点はそこではありません。
「いま・ここで・わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに気付くか否か」という点を見極めていきたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏