手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

感応道交

 なぞなぞは子どもには人気ですが、そこには大人も考えさせられるものがあります。
「自分のものなのに、他の人の方がよく使うもの、なぁに?」
 このなぞなぞをある会で申しあげたところ、働き盛りの一人のお父さんが自信満々に手を挙げて答えられました。
 「それは、私の給料です!」
 悲壮感というよりは、やむを得ないあきらめと少しの喜びを交えて、ただ聞いてほしいという感じで続けて仰いました。
 「私が一生懸命働いて稼いだ給料を、家族は次から次へと使うんです。ひどいと思いませんか?」
 そこで、まず、このなぞなぞの正解が給料でないことをお伝えし、次のように味わわせていただきました。
 「それはお気の毒だと思います。申しあげられるのは、給料がご自身一人のものという思いをお捨てになるのが、一番の近道ではないでしょうか」
 なぞなぞの答えは「自分の名前」です。
 自分の名前は自分のものなのですが、他の人が使うためにあるといえるでしょう。
 テストの答案用紙や書類への記入、自己紹介など自分が一番使うだろう、という方もいるかもしれません。
 ですが、自分が使う回数よりも、親を含む他者から呼ばれる回数の方が圧倒的に多いはずです。自分が名前を覚えるそのずっと以前から、他者からよばれ続けていたのですから。
 名前とは他者に呼んでもらうために存在する、といえるでしょう。自己紹介も他者がいるからこそ行うものであり、自分一人でいるときに自己紹介することはあり得ません。
 南無阿弥陀仏の名号は、私たちがとなえることのできるように、仏が考えに考え抜いて完成されたものです。仏の願いが込められて、私たちへと届けられました。
 私たちに届くその前に、仏の側で願と行を欠けることなくそなえられ、完成されていました。それは、私たち衆生を浄土に生まれさせ仏にさせるという願いであり、そのための功徳の込められた名前です。
 名前とは代替可能なただの記号ではなく、仏から私への喚び声であり、私から仏への応答でもあります。仏と私をつなぐ、仏と私の関係性のなかにあるのです。
【『安心決定鈔』を読む P72~P74  佐々木隆晃 大法輪閤より】



南無阿弥陀仏」は単なる記号や呪文ではありません。
阿弥陀さまと私を繋ぐ共通語ともいえましょう。
いうならば、「南無阿弥陀仏」というボールをもってして、(阿弥陀さまと私が)キャッチボールをしているようなものです。
「ただ念仏のみぞまこと」というお言葉がずっしりと心に響きます。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


感応道交
http://d.hatena.ne.jp/miko415/20140411
お慈悲のままに ※Mutual Sympathy between Two(感応道交)より