手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「南無阿弥陀仏」という言葉

 

 東洋の伝統的な思想のなかでは、多くの場合、言葉は分別の力によって世界を把握していくための枠組みないし道具であり、それによって生みだされた世界像は虚構性に満ちていると考えられてきた。

 それに対して親鸞は、真なるものが言葉に現れると考える。そしてその言葉を「聞く」ときに信心が成立すると考える。言葉を軸にして、信仰の問題が考えられている。そこに親鸞の信仰の大きな特徴がある。

 親鸞ももちろん一方では、先に引用した「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」(『聖典』709‐710頁)という『唯信鈔文意』の文章が示すように、言葉は真理そのものには及びえないという考えをもっていた。言葉の限界を十分に認識していた。

 しかし他方、これもすでに引用したが、『一念多念証文』のなかで、親鸞は「方便と申すは、かたちをあらはし、御(み)なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり」(『聖典』691頁)と記している。名号は阿弥陀仏が示した自身の「御な」である。しかもそこには「この名字をとなへんものをむかへとらん」という「御約束」(『歎異抄』、『聖典』838頁)が込められている。『唯信鈔文意』に「如来のちかひの名号」という表現があるが、名号には衆生救済の慈悲の心が込められている。名号はそれが具体的な形を取ったものだと言ってよい。そういう意味でそれは単なる言葉ではない。言葉でありながら、言葉以上のものという性格をもつ。親鸞が言葉のなかに、われわれの通常の言葉が作り出す虚構の世界理解や価値観を打ち破る力を見いだしえたのは、その言葉が仏自身の「御な」であり、「ちかひ」であるという確信、つまり、それが言葉でありながら言葉以上のものであるという確信があったからだと考えられる。

 そういう意味で親鸞の信仰はこの名号の上に打ち立てられていると言ってもよい。

【親鸞 その人間・信仰の魅力 藤田 正勝 法蔵館 P135,P136 「名号は仏の誓い」より】

 

 「南無阿弥陀仏」という言葉には、阿弥陀さまの命が込められています。単なる6文字の言葉ではありません。

 ここでもありますように、名号(南無阿弥陀仏)には、阿弥陀さまの衆生救済の慈悲の心が込められているのでした。衆生救済とありますが、個人的に言えば、「わたし(手品師)の救済」ということです。

 ですので、わたし(手品師)は、ありがとうございます!と、阿弥陀さまに、感謝の気持ちを、念仏(南無阿弥陀仏)を通して伝えるのでした。

 今回、この文章を読んでいまして、大峯 顕 先生の「言葉は語る」というフレーズが思い浮かび、懐かしい気持ちになりました。そして、日々、「言葉の力」に拘っている私としまして、大変よい機会となりました。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

下記リンク:言葉は語る(大峯 顕)