手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

蓮如(れんにょ)の文章

 

 蓮如の『白骨の御文章』は、広く人々に親しまれできた文章ですが、それを、くり返しが多く、常套的(じょうとうてき)な表現や手垢(てあか)のついたフレーズが多い文章である、と批判する人もまた少なくありません。その人たちはひょっとすると、彼の文章を机の上で読んでいるのではないかと思うことがあります。『白骨の御文章』は、ある状況のもとで、耳から聞かなければならない文章です。許されれば、たくさんの人々と一緒に心を合わせて斉唱(せいしょう)するものではないでしょうか。

 すると、蓮如の言葉の寝ていた活字が、いきなり立ち上がってくるような迫力をおびてくる。いわば、蓮如の文章は状況の文章で、普段は寝ているという感じがあります。

 私ごとですが、二十年来アシスタントをしてくれていた弟が急死したとき、呆然として三日くらい泣けなかったことがありました。しかし、たまたま数日後に、知人が訪ねてこられて『白骨の御文章』を読ませてくださいと言われて、遺影の前で読んでくれた。その文章を私は何百回となく読んでいたにもかかわらず、そのときはじめて聞いたような感動を覚えて号泣(ごうきゅう)したものでした。

「しゃべれ、しゃべれ、ものを言え、言え」

と蓮如はしばしば言っていますが、音声、しかも肉声で、ある状況のもとに、という三つの条件が揃うと、彼の言葉は異常なまでにすさまじい力で心にぐさっと突き刺さってくる。蓮如の文章は、そういうものなのです。

 いつ読んでもおもしろい文章もあります。しかし、普段は寝ていて、いざというときに立ち上がってくる文章、これはじつに素晴らしい。それが蓮如の文章の個性であり特色です。

【他力 大乱世を生きる100のヒント 五木寛之 講談社P192、P193より】

 

  とりわけ御文章(御文)は、机の上(学問的な視点)で読むのではなく、自分自身のこととして、拝読したいものです。

 そういえば、今は亡き、あほうどりさんが、御文章(御文)を、とても勧められていたことを思い出しました。

 そのほか、南無阿弥陀仏には、直接、関係ないかもしれませんが、「人はどう生きるか:吉野源三郎」、「泣いた赤鬼(絵本):浜田広介」も勧めていましたね。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏