手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀さまの名乗り

 

 親鸞聖人は、善導大師の「称名正定業」をもう一歩踏み込んで、「本願の名号は正定業なり」と言われています。称名ではなくて名号です。「称名正定業」のことを、あえて「名号正定業」と展開させていくのが親鸞聖人の『教行証文類』なのです。

 ではなぜ「称名正定業」を「名号正定業」と展開されるのか、そこで問題なのが、名号を称えていることが一体どういう意味を持っているのかということです。親鸞聖人は、名号を称えるということは、実は私の営みではない、阿弥陀仏が私の上で活動している相(すがた)だ、阿弥陀仏が私に在ってはたらいているすがた(行相)だ、と見ていかれるのです。だから名号を称えていることは、私が称えているというような人間のはたらきでなく、阿弥陀仏のはたらきそのものであるから「大行」とも「真実行」とも言われるのです。

 それはどういうことかというと、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」という声は、阿弥陀仏が私達に救いを告げている説法、名乗りだということです。「お前を救う救い主がいるぞ」ということを、私達に告げている阿弥陀仏の名乗りが称名の声となって私に聞えている。私が称えているままが、実は阿弥陀仏が十方衆生に救いを告げる言葉そのものなのだ。

【正信偈講座 梯 實圓 本願寺出版社   P54、P55より】

 

 難しい内容(文章)ですが、簡潔に言いますと以下のようになるでしょう。

 「お前を救う救い主がいるぞ!」という阿弥陀さまの名乗り。

 つまり、その名乗りである「南無阿弥陀仏のはたらき」に気付かされる(知らされる)と、自ずと「南無阿弥陀仏(ありがとうございます)」と報恩感謝の念仏がこぼれます。

 「南無阿弥陀仏」という言葉を媒体として、阿弥陀さまと私が通じ合っているともいえましょう。「南無阿弥陀仏のはたらき」は、いま・ここで・私に、はたらいています。そのはたらきに気付かされる(知らされる)こと以上の幸せはありません。この世に、人として生まれ、生きている意義がそこにはあるのでした。「南無阿弥陀仏」があって、本当によかったなあ~、と思う日々です。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏