阿弥陀如来の、法蔵比丘でありしとき
善太郎、仏にならじは
われも仏にならじと誓いたまい
ついにはその願、成就したまいた証拠が
なむあみだぶつに正覚をとりなさりた
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ
この詩文において、善太郎はたんに善太郎ではない。善太郎は弥陀の誓願のかかわる善太郎、「そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願」のどこまでも関係する善太郎であった。それが語録の「善太郎、仏にならじはわれも仏にならじ」ということである。法蔵比丘の誓願は、弥陀の正覚として成就され、その証拠が名号である。つまり、この詩文で名号と善太郎との本質的な関係が謳われている。誓願成就のゆえに、善太郎は正覚にかかわり、正覚に包摂され、摂取のなかにある。名号はたんに名号ではない、善太郎をなかにつつむ名号である。善太郎もたんに善太郎ではない、名号における善太郎である。仏あって善太郎あり、善太郎あって仏ある。
【石見の善太郎 松塚豊茂 永田文昌堂 P31、P32より】
阿弥陀さまと善太郎さんの関係がよくわかります。まさしく、一心同体南無阿弥陀仏、です。名号(南無阿弥陀仏)につつまれている生活に安堵あり、です。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
善太郎翁肖像
妙好人 石見(有福)の善太郎
http://hiryu-jokoji.jp/smarts/index/39/
【浄光寺(浄土真宗本願寺派)ホームページより】