手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

言葉の力

 木像とか絵像というのは、これは浄土にまします如来であり、五念門ということから言えば、これはあくまでも観察の世界です。観の対象、観察門です。それに対して、方便法身によって法性法身を出(い)だすという、こちらのほうが名号です。法性法身によって方便法身を生じたのが、木像・絵像。方便法身によって法性法身を出だしたのが、名号だと言われています。
 そこに「出だす」とありますが、これは、
   しかるにこの行は、大悲の願より出(い)でたり。(「行巻」聖典一五七頁)
ここに言われている「出」と同じです。すなわちこの出とは回向門、つまり名号は回向に属する。木像・絵像は観察に属する。それから、この法性法身によって方便法身を生ずるというところに、名号まで入れるのは間違いだ。名号は逆に方便法身によって法性法身を出だすという、回向の名号だという区別を、曽我先生は指摘されています。

(略)
 ですから、「方便法身に由って法性法身を出だす」というほうは名号、もうひとつもとに戻して言えば、つまり言葉にまでなる。言葉というのは観察の対象ではないわけです。観察という行の対象とならないものが言葉です。言葉と聞くという、つまり受け止める、聞きとるということのほかにないわけです。
 さらに曽我先生は、
方便法身というものによって法性法身が言葉になってきた。この「出す」ということは、表現ということである。「法性法身に由て方便法身を生ず」ということは象徴であり、「方便法身に由て法性法身を出す」ということは表現である。法性法身が言葉として表現される。言葉がなければ、色とか形というものが固定にしてしまう。言葉というものは、色や形が固定しないで、色や形が限りなく変化し展開してくる。それは言葉を体としているからである。もし言葉というものがないならば、色や形が固定してしまう。色や形が偶像化してしまう。それは偶像化しないということは、即ち生きた言葉があるからである。だから「方便法身に由て法性法身を出す」、その言葉というものが、われわれに真実の信心を発起せしめてくだされるのであります。
(「真宗大綱」『曽我量深』第九巻、三〇五~三〇六頁)
【〝このことひとつ〟という歩み 唯信鈔に聞く 宮城 顗 法蔵館 P156~P157より抜粋】

 

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 ここでいわれている「言葉」ですが、『南無阿弥陀仏』という言葉を意識しての内容と受けとれます。私としましては青字部分(言葉について)のところがとても共感できます。まさしく、「言葉の力」です!
 曽我量深 師のご著書をそれなりに拝読していますが、正直、難しいです。結構、挫折しています。時代背景の違いもあるでしょう。独特の表現をされていますので、なかなか入ってこない(いけない)のが現状です(笑)。
おかげさまで 正月も 南無阿弥陀仏

 

五念門(ごねんもん)
阿弥陀仏の浄土に往生するための行として、天親の『浄土論』に示された5種の行。
① 礼拝門(阿弥陀仏に礼拝すること)
② 讃嘆門(光明と名号のいわれを信じ、仏名を称えて阿弥陀仏の功徳をたたえること
③ 作願門(一心に専ら阿弥陀仏の浄土に往生したいと願うこと)
④ 観察門(阿弥陀仏・菩薩のすがた、浄土の荘厳相を思い浮かべること)
⑤ 回向門(自己の功徳をすべての衆生にふりむけてともに浄土に往生したいと願うこと)
【浄土真宗聖典 P215、P216より】

 

二種法身(にしゅほっしん)
法性法身と方便法身のこと。
法性法身とは、真如法性のさとりそのものである仏身という意で、人間の認識を超えた無色無形夢相の絶対的な真理のことをいう。
方便法身とは、衆生を救済するために具体的なかたちあるものとしてあらわれた仏身のことをいう。
 曇鸞は『論注』において阿弥陀仏の浄土の広略相入を明かす中で、「諸仏・菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は、異にして分つべからず、一にして同じかるべからず」(証巻引分・註321)と述べ、両者は、法性法身によって方便法身を生じ、方便法身によって法性法身をあらわすという関係であり、また、異なってはいるが分けることができず、一つではあるが同じとすることはできないという関係であることを示している。
 親鸞は「唯信鈔文意」に「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて」(註709)と述べ、法性法身から、自他を分別し執着して苦慮する衆生を呼びさまし、万物が本来平等一如であるという真如の世界にかえらしめようと、かたちをあらわし御名を垂れ、大悲の本願をもって救済せんとするのが方便法身すなわち阿弥陀仏であるとする。
【浄土真宗聖典 P520より】

 

一如(いちにょ)
一は絶対不二の意。真如のこと。さとりの智慧によってとらえられたあり方で、すべての存在の本性が、あらゆる差別の相を超えた絶対の一であることをいう
【浄土真宗聖典 P25より】

 

大悲(だいひ)
大いなる慈悲の心のこと。
【浄土真宗聖典 P462より】

 

本願(ほんがん)
仏が因位(いんに)の菩薩であったときにおこした因本の願いという意。この願いは、それが完成しなければ仏にならないという誓いをともなっているので誓願といわれる。また、衆生救済のための根本となる願の意で、阿弥陀仏の四十八願中、特に第十八願を指していう。
【浄土真宗聖典 P614より】


衆生(しゅじょう)
一切の迷いの生類、すなわち生きとし生けるものすべてを指す。一般には凡夫である人間を指す場合が多い。
【浄土真宗聖典 P324,325より】

 

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