手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀さまと私

(親鸞)聖人の教えは、決して特別な学問的訓練を受けた人を対象としたものではなく、また特別の修行をしてはじめてわかるというようなものではありません。むしろふつうの世俗の生活をしている人たちのための教えです。鎌倉仏教の中でも、とくに法然上人や親鸞聖人の念仏門は、インド・中国・朝鮮・日本と伝来し展開してきた仏教を、実際に日本人の血となり肉となるものとして、日本人の独特の理解と解釈をとおして根づかせたという意味をもつわけで、その点から言えば、日本人にとって決して理解の困難なものではありません。その教えは、聖人の言葉に従って簡単に申しますと、本願の名号を聞信するということにつきます。光明無量・寿命無量という、無限の光と無限の生命をもった阿弥陀仏の一切の衆生を救済しようという願い、それが本願ですが、その具体的な人間へのはたらきかけ、よびかけが名号です。わが名をとなえる者を浄土へ迎えようという願をたて、それを南無阿弥陀仏という名号として成就された、その名号を私たちが聞いて本当に信ずる、それが本願の名号を聞信するということですから、その教えそのものは簡潔にして明快であり、決して特別な思索や訓練を必要としない。その教えを自分のはからいをすてて信ずる、あるいはそのよびかけに全面的に信順すればよいわけです。そのこと自体は必ずしも容易なことではありませんが、教えとしては極めてわかりやすい教えです。

【親鸞 教行信証を読む   石田慶和  響流書房より】

 

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浄土真宗の教えの肝となるところを、より分かり易く明確に説明されています。阿弥陀さまの「南無阿弥陀仏」という呼びかけに対し、私は「はい、ありがとうございます!」と応えるだけなのでした。阿弥陀さまと私は、「南無阿弥陀仏」という6文字の言葉を通して会話をしているといってもよいでしょう。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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