手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

阿弥陀如来の衆生済度

阿弥陀如来衆生済度、すなわち、わたしどもを助けたいという救済の目的は、信を発させるにあるのであって、それがための本願であり、それがための御修行であり成仏であったのであります。それゆえ、光明の如来となって、普(あまね)く十二光を放って、時間的に三世を通じ、空間的には十方無辺に、真に十方衆生の上にその光を放って、わたしどもに信の眼を開かせたいのであります。これを、「阿弥陀如来は光明と摂取との二つのことわりによって、衆生を済度したもう」と申すのであります。光明を放って、光によって照らし育てて、一念の信を発させて、信によって摂取不捨(せっしゅふしゃ)の身とならせようとせられておるのが、如来の本願であり、これを摂取不捨の誓約と申すのです。「光照(こうしょう)」とは、光明遍照十方世界のことであり、摂取とは念仏衆生摂取不捨のことであります。摂取不捨の自信に入らせることが如来衆生済度の目的であって、摂取不捨の身にさせるには、信を発させたいのです。それを信によってたすけて下さったと申すのであります。
正信偈講話 上 蜂屋 賢喜代(はちや よしきよ)P149、P150より】



ジョギングコースのお寺の墓に刻まれた「念仏衆生摂取不捨」の言葉に、念仏させられる日々です。阿弥陀さまの衆生済度のはたらきは目にはみえませんが、「南無阿弥陀仏」という6文字の言葉となって具現化されています。「南無阿弥陀仏」は単なる言葉ではありません。阿弥陀さまと私を繋ぐ架け橋といってもよいでしょう。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏