手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「ありがたい」というのは

他力大慈悲の本願である光明の御徳を聞いて、なお他力信心の発(おこ)らない人、すなわち自力信のひとは、如来をたのむ心を常に発そう発そうと心懸けて、そして御念仏を忘れぬように、称えよう称えようと絶えず努力するのであります。つねに努力しますけれども、自力心をもって絶えず努力しておるということは、実は苦しいことであって、忘れまい忘れまいとしておりながら、いつの間にか忘れておるものであります。念仏を忘れては、びっくりして勤めますけれども、たのむ心も忘れづめとなり、称える念仏も忘れづめとなるのであります。絶えず心に策(むち)うって、忘れまい忘れまいとしておることは、それは結構なことのようですけれども、思い出すことに努力しておらねばならぬようでは、実は苦しいことであります。そして安心と喜びよりも、不安が常につきまとうておるのであります。どうしても、自然に思い出されてくるようにならねば、安心も喜びもありません。ありがたいというのは、忘れておる貪瞋煩悩(とんじんぼんのう)の生活の中から、我ならずして思い出されてくるのであってこそ、他力広大の御慈悲として喜ばれるのであります。ありがたいとか嬉しいとかいうのは、この味わいであります。
【正信偈講話 上 蜂屋 賢喜代(はちや よしきよ)P118より】



ここでいう「ありがたい」という味わいは、(わたしが)阿弥陀さまにおまかせ状態であることから発せられる言葉です。何かの拍子に「南無阿弥陀仏」と口からこぼれでます。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏