初めは誰でも、この世のことから出発するのですけれども、いつの間にか、その出発した処を忘れて、あの世から出発して、求道聞法するようになってしまうのであります。それがため、聞いても聞いても会得(えとく)がいかなくなってしまうのであります。
求道の出発点が明らかであって、聞法の道程を経て、信に達したものならば、信は未来の問題、死の問題、死後の問題をも解決し、また現実の人生の諸問題をも、解決する筈であります。しかるに、出発した家を忘れて、方角を転換してしまうものですから、如来は未来のみを照らして、現在を照らさなくなるのであります。自己の信が、未来を照らしているように思うているけれども、現在を照らさないような光は、真に未来を照らしているのではありません。ですから未来の往生を喜んでいると言いながら、実はちっとも喜べていないのであります。未来の成仏を楽しんでいるというけれども、事実は楽しめておらないのであります。その証拠には、未来こそ一大事じゃと口にはいうていても、事実の上に、毎日毎日真剣になっている事は、現実生活のことばかりであります。この世こそ真に一大事であって、寸分のぬかりもないほどに、電報や、電話や、金の事で、眼を光らしているではありませんか。そして聞法となると居眠りばかりしているではありませんか、眠らぬにしても、なおざりに付しているではありませんか。
朝から晩まで、家にあっても、外にあっても、旅をしても、そのいつでも、何を考え、何を煩い、何を悩んでいるのかと、ちっとは本気に自分の胸の中をのぞいてみるべきだと思います。偽るべからず真に悩んでいる問題は何か、真剣に心配している問題は何か。あの世のことに安心しているといっても、此の心は、此の世のことで一杯ではありませんか。(略)
親鸞聖人の信の問題は、未来の問題ではありません。現に「今」の問題に立ってのことであります。それゆえ一念発起(いちねんほっき)、平生業成(へいせいごうじょう)の宗旨と申されるのであります。問題を未来としている人は、臨終正念(りんじゅうしょうねん)をいのる人であります。その人は他力の信心がないのであります。かかる人々は深く内省して、「今」の心と、現実の問題を問題とする心に、立ち帰らねばならないのであります。宗教の問題は現実の問題であり、求道の出発は現実の諸問題であることを、忘れないようにして、この問題を求め求めて、聞法すべきであります。此の心を持しつつ、聞法してゆくところに、真実の信心は決得(けっとく)せられ、現実人生の諸問題は解決せられて現実に歓喜信楽(しんぎょう)の生活を得るのであります。
【聞法の用意 蜂屋賢喜代 法蔵館 P111〜P113より】
ここでもありますように、宗教は「今」の問題です。
南無阿弥陀仏のはたらきは、いま・ここで・わたしに、はたらいています。ですので、「このいま」、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂けます。阿弥陀さまの救いを、自分の思いや計らいでどれだけ計らっても計らい切れるものではありません。また、阿弥陀さまの救いを未来においたところで何の解決もありません。(阿弥陀さまの)救いの先送りは、いつまでたっても先送りなのです。「このいま」が大事になってきます。阿弥陀さまの救いは「このいま」なのです。なぜ、「このいま」なのか? それは、わたしは、「このいま」南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされているからです。「いま」そのはたらきに気付かされるか否か、非常に大事なところです。
おかげさまで このいまも 南無阿弥陀仏