他力本願によって助けられると聞いても、本当に此の私が助かるのか、どうかをよくよく考えねばなりません。十方衆生を漏らさぬと聞くから、私も助かるであろうというようなことでは、如何に信じたつもりでも、それは信じたのではなく、助かったのでもありません。
法のことを聞いても機(き)のことを聞いても、そういわれるが、それは本当に私のことであろうか、本当のことであるかどうかと、考えるべきであります。考えるということは、惑うことであるといってもよろしい。ちっとは惑いでもすればいいのです。疑いです、疑いでもすればいいのです。疑いや惑いはいつかは信になります。信ぜられぬとか疑いがとれぬとかいいますが、多くは、それが疑いでもなく惑いでもなく、ただ安心ができぬだけのことであります。疑うとか惑うとかいうことは、実は自覚あっての上のことであります。多くはそれさえないのであります。
【聞法の用意 蜂屋賢喜代 法蔵館 P53,P54より】
南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされますと、(阿弥陀さまの救いに対して)「疑う」とか「惑う」といったものは吹き飛ばされてしまいます。つまり、「わたしは(阿弥陀さまに)救われたのだろうか?」というような疑いや惑いは一切ない、ということです。わたしの自覚を超えていますので、自覚する必要性がありません。いうならば、当たり前すぎて自覚する必要がない、ということです。
このいま、吹雪の中を歩いている人が、今日の天気は吹雪ですか?と、聞くでしょうか?!
ここでは、「多くはそれさえないのであります」と端的に表現しています。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏