手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

心得たと思ふは心得ぬなり、心得ぬと思ふは心得たるなり

 一休禅師の逸話が思い出されます。ある時、禅師が人々を集め一本の曲がりくねった松を指して誰かあの松をまっすぐに見ることが出来るかと謎をかけた。人々がいろいろ工夫して竪(たて)から見たり横から見たり、股の間から覗いたり、何とか真直に見ようとさんざん努めたが、その曲がりくねった松はどうしてもまっすぐには見えない。とうとう腹を立てて和尚さん人を揶揄(からかう)ものではない。一体貴僧(あなた)はまっすぐに見ることが出来ますか、と言ったところ、一休禅師はニコニコしながら「ああ出来るとも、それはなんでもないことじゃ。見なさい、あの松は曲がりくねっておろうが、曲がりくねっているものを曲がりくねっていると見たら、それがまっすぐに見たことじゃ」と答えられたというのです。われわれは正見といえば、何か特別な見方をして変ったものを見つけ出すように思うのですが、それが計らいというものです。真実は常に足許にある。我執をことさら取り除いて正見を探すのでなく、我執を我執と知らしめられたとき、そこに正見への道は開けるのであります。
 しかしそれは決してわれわれの反省で達しられるようなものではありません。反省はどこまでも自己の視野に過ぎないからです。そうではなくただこの自己の全分が自己以上の鏡の前に立ち、自己以上の光に照らされたとき、そこに自己の全(まった)き姿が照らし出されるのです。しかしその自己が知らしめられるのは理解というような仕方を通じて知られるのではありません。理解は自己が何ものかを眺めているときの意識です。『御一代記聞書』に、「心得たと思ふは心得ぬなり、心得ぬと思ふは心得たるなり」と言われていますが、心得たという理解の態度は自己が何ものかを眺めるのであり、その眺めている自己そのものは取り残されています。我執は眺められた自己にではなく、眺めている自己の底に潜むのです。心得たと思うときは、自分は心得ているのに人は心得ておらぬ愚かなことだという態度にどうしてもなる。しかしこれでは肝心の自己の正体は知らされてはいません。「心得たと思ふは心得ざるなり」と言うのは詭弁ではなくして当然の事実を指摘しておられるのです。
【慈光の旅 −信仰と反省− 井上善右衛門 自照社出版 P99,P100より】



前半では、
一休さんの有名な逸話」が紹介されています。
本来のありのままのすがたを歪めてしまう、わたしの計らい、について指摘されています。
後半では、
真実は、わたしの計らいを超越しています。ですので、わたしの頭の中で「(真実は)あーだ、こーだ」とどれだけコネクリ回しても進展はありません。
ここでは、
「自己の全分が自己以上の鏡の前に立ち、自己以上の光に照らされたとき、そこに自己の全(まった)き姿が照らし出されるのです。」とあります。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏